罪と赦し、そして愛〜びわ湖の《スティッフェリオ》

2005年10月23日

日本で最高のオペラ劇場はどこか。
 そう問われたら、今の私は迷うことなく「びわ湖ホール」と答えるでしょう。
 響きのよさ、馬蹄形で客席と舞台が近く感じる一体感。ソプラノのミレッラ・フレーニがここで歌った後、「このホールを持って帰りたい」と言ったのもむべ なるかな、という感じです。チケットセンターやホワイエの担当者に至るまでそれぞれの部署で催しをもり立てるスタッフの質の高さ、ガラスの向こうに広がる びわ湖の眺めなど、観客を満足させる要素はほかにもいっぱい。どうしても難点を上げろと言われたら、せいぜい女性のトイレが洋式より和式が多いことくらい です。演奏者にとっていいホールが、観客にとってよくないはずがありません。
 それに加えて、このホールが毎年独自にプロデュースしているオペラが、これまた素晴らしい!!
 会館以来、ヴェルディの日本ではあまり上演されない作品を中心に(というかほとんど日本初演で)毎年一作ずつ取り上げていますが、今年の《スティッフェリオ》も、日本で上演されるのは初めてです。
 なにしろ、キャストが素晴らしい! まず、タイトル・ロールは福井敬さん。この方の歌を聴くために、私は今年もびわ湖遠征をしてしまいました。
 しかも共演が超豪華。バリトンの堀内康雄さん、バスの久保田真澄さん、ソプラノの小濱妙美さんと、日本の最高峰の歌い手さんばかりです。そのうえ、合唱は地元のびわ湖ホール声楽アンサンブルに加えて、なんと東京オペラシンガーズ!
 所属団体が異なることもあってなかなか共演の機会が少ない、こうした日本のトップ歌手が一堂に会するのが、新国立劇場ではなく、「びわ湖ホール」なのです。

妻の不義を赦せるか

福井さんが演ずるスティッフェリオは、牧師。妻のリーナをおいて長い布教の旅をして、ようやく我が家に戻ったのだが、留守の間の妻の不貞を知ることにな ります。要するに、夫が仕事で忙しくずっと家に帰ってこない間に、寂しい妻が優しく言い寄られた若い男についふらりとなってしまい、後からバレちゃったと いう、今の日本でもありそうな設定。
 とはいえ、スティッフェリオはなにしろ牧師。日頃、神の名において人々を諭し、憎しみや怒りにとらわれている者には、「汝の敵を許せ」「右の頬を打たれ たら左の頬を……」と説いてきた立場です。けれどもその彼が、いざ自分の妻の不義に直面して、怒り、我を忘れて混乱してしまいます。どんな高潔な人間で も、神の言葉を伝える身であっても、人間である以上、弱く脆い。どんなに苦悩しても、人はそれでも生きていかなければなりません。この辛さ……
 リーナの父スタンカーは、元軍人で誇り高い人物です。娘が過ちを犯したことが露見すれば、家名の恥。厳格で対面にこだわる一方で、娘に対する愛情は断ち 切れません。『椿姫』のジェルモンに通じる、この時代の父親です(こういう役をやらせたら、堀内さんはもうピカイチ!)。
 第2幕、墓場でスタンカーは貴族ラッファエーロと決闘します。そこに割ってはいるスティッフェリオ。そこで、彼は妻の不貞の相手がラッファエーロと知り ます。妻の不貞の現実を突きつけられ、失意と憤りで苦悶するスティッフェリオの耳に、教会からオルガンの音と賛美歌が聞こてきます。行って信徒たちに神の 教えを伝えなければならない。でも……神に仕える身と妻を寝取られた生身の男の感情に、彼はのたうち苦悶します。
 この場面での福井さんの歌と演技は、まさに鬼気迫る感じでした。
 そして第3幕。スティッフェリオは、妻との離婚を決意しながら、未練はあります。だからこそ、用意した離婚届に妻がサインをすると、かえって動揺してしまいます。リーナは、妻として聴いてもらえなかった自分の思いを、牧師に対する懺悔として語る。
 夫が妻の話を聞かないまま「分からない」と言っている家庭は、ヴェルディの時代にもあったのですねえ……
 妻が実は自分を愛していることを知って、ますます動揺するスティッフェリオ。それでも、説教のために教会に行かなければならない。多くの信徒が待っている。リーナとスタンカーの父娘も信徒として跪いています。
 気持ちが整理できないまま教壇に進んだスティッフェリオが聖書を開くと……

罪は赦された!

目に飛び込んできたのは、「ヨハネによる福音書」の8章でした。
<イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法 学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりま した。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」>(日本聖書協会・新共同訳『聖書』 より)
 しばらくして、イエスが言う。
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」
 その時、スティッフェリオの心に光が差し込みます。
 この光に照らされて、彼は自分の中にある罪を意識したのでしょう。嫉妬、プライド、怒り、憎しみ……自分の心の中にある、あらゆるネガティブな感情を認め、自分も所詮は一人の弱く、脆く、罪深い人間であることを受け入れました。
 そして、リーナに向かってこう告げます。
「そして、その女……赦されたその女は立ち上がった」(オペラ読本出版『スティッフェーリオ』より)
 この言葉は、聖書にはありません。スティッフェリオ自身の言葉です。
 神に感謝を捧げながら、説教台ににじり寄っていくリーナに、スティッフェリオは続けます。
赦された女、赦された女……神はこのようにお告げになった」
 スティッフェリオに女の赦しを告げたのは、誰だったのでしょう。神? それとも彼自身の内なる声でしょうか? 
 いずれにせよ、怒りやプライドのために一番大事なものを失いかけていたスティッフェリオは、聖書の助けを借りて彼女を赦したことで、彼自身が解放され、愛を得、救われたのです。
 赦しとは、赦される側だけでなく、赦す側の人間をも救うことだったのですね。
 そして、最後のシーン。
 さし出されたスティッフェリオの手に、リーナの手が触れあう直前に幕が下ります。

最高のキャスト&スタッフ

こういう人間の内面の葛藤を表現させたら、福井さんの右に出る者はいないのではないか……と思います。最近は、とみに高音の輝きが増し、中音域はますま す深まって、表現には凄みさえ出てきました。特に2幕と3幕の終盤は、スティッフェリオの苦悩がびんびんと伝わってきて、涙なしには聴くことができません でした。
 堀内さんの3幕のアリア、最高でした。藤原歌劇団の『椿姫』でのジェルモン、《アドリアーナ・ルクヴルール》でのミショネと、一番大きな拍手を浴びていらっしゃいましたが、今まさに脂がのりきっているという感じですね。
 幕が開いて第1声はバスの久保田さん。序曲がヴェルディにしてはいささかぱっとしない――ワクワク高揚したり思わず涙ぐんだりするような、他の作品が持 つ”そそられる”感じがあまりない――のですが、久保田さんの穏やかだけれど底力のある第1声で、一気に物語の世界に引き込まれました。
 こうした素晴らしい出演者が、お互いに高め合ってさらに実力を発揮するという、理想的な形になったようです。
 合唱も本当に見事でした。
 歌がよかっただけでなく、舞台全体の音の構成が最高でした。
 とりわけそれを感じたのは、2幕の墓場の場面で、合唱やオルガンが聞こえてくる場面。
 おそらく教会に隣接している墓地なのでしょう。
 歌は建物の中から聞こえてくるので、それほどビンビン伝わってくるわけではありません。でも、スティッフェリオの心にはひたひたとその音は迫ってきます。
 近すぎもせず遠すぎもせず、強すぎもせず弱すぎもせず、音の距離感が実に絶妙でした。
 ホールを知り尽くした人が、指揮者や演出家の意図を汲み、合唱も含めて歌い手の声を聴いて、立ち位置をアドバイスしたり、舞台の音響を調整したりしたのでしょう。
 そういう人がいるという点でも、このホールのプロフェッショナル度が分かります。
 
 それにしても、滋賀県の外郭団体であるびわ湖ホールがこんなすばらしいキャストを集めた公演ができるのに、日本のオペラの殿堂であるはずの新国立劇場ではなぜできないのでしょうね。
 (1)海外の最高水準の歌手を呼んで安価な価格で聴かせること、(2)日本の若手に活躍の機会を与えること、そして(3)今の日本人が作る最高のオペラ を見せること。この3つが税金を投入して行っている新国立劇場で大事な役割だと思います。でも、今の新国立は、なんだかどれもクリアできていない気がする のですが……

赦すのは誰か

ところで、この《スティッフェリオ》の3年後に、ヴェルディは《椿姫(ラ・トラヴィアータ)》を発表しています。
 どちらも、老父として出てくるバリトンが大事な役割を与えられています。《スティッフェリオ》では娘レーナの父スタンカー、《椿姫》ではアルフレードの 父ジェルモンは、宗教的にはプロテスタントとカソリックで異なっていますが、キャラクターとしてはきわめて似ています。どちらも家名を重んじ誇り高く、信 仰心篤く、教育熱心で厳格ではありながら子どもに対しては深い愛情を惜しまない……
 家庭の中での権威であるスタンカーやジェルモンは、当時の理想的で代表的な父親像だったのでしょう。
 音楽も《スティッフェリオ》の中には、《椿姫》をちらりと思い起こさせるところが、何カ所かあります。聴いているうちに、なんだか《スティッフェリオ》と《椿姫》は、対の作品という気がしてきました。そこに流れるテーマこそが、「罪と赦し、そして愛」です。
 人間の清らかさとか罪深さは、育ちや職業や立場で判断することはできないし、清らかさと罪深さのどちらか一方だけに満たされた人間もそう多くはありません。
 家柄がよく、清純な娘だったはずであり、牧師に嫁いだレーナは、罪を犯します。それでも彼女は生きて赦しを求め、最後は愛と信仰によって赦しを与えられます。
 一方、《椿姫》では罪にまみれた、すなわち「道を踏み外した女」である高級娼婦ヴィオレッタが純粋な愛と信仰心を守り抜いて死んでゆきます。その時点で彼女は赦され、祝福された存在として神に召されました。
 その赦しを与えるのは、誰でしょうか? 父親とか牧師とか、そうした権威なのでしょうか?
 スティッフェリオは、レーナを赦すことで自分が救われます。
 ジェルモンも、ヴィオレッタにアルフレードとの別れを迫る場面では、神の言葉を語っていました。けれども、ヴィオレッタの愛の深さを通して、自分は赦し を与える立場でななく、罪深く、赦しを乞うべき人間であることを悟ります。そして彼は、ヴィオレッタを通して赦されます(ヴィオレッタは、ジェルモンも含 めて最期の場面に立ち会った人たちを「私の親しい方々」と呼んでいます)。
 教会を含めた社会的権威が、常に赦しを与えたり罰したりする資格があるとは限らない。どんな権威者も人間である限り、神の前には赦しを乞うべき罪深い人 間であると自覚するべきだ。この自覚があってこそ赦しは与えられる。そうヴェルディは言いたかった、と思えてなりません。
 でも、検閲が厳しく、この作品もヴェルディが書いた通りの形で上演することは許されなかった時代です。カソリック教会を舞台にするなどできるはずもな く、それでプロテスタントの牧師を題材にした原作を目にした時に、「これだ!」とひらめいた……という想像は、飛躍のし過ぎでしょうか。
 人間である限り、誰も弱くもろい存在であるけれど、愛を知ることで強く気高くもなりうるし、赦される――そんなヴェルディの思いが、この両作品には込め られているような気がします(ここでいう愛とは、男女の愛、人間愛にとどまらず、神の愛を含めて……なのですが、ヴェルディ自身は信仰の部分が比重として は大きかったのでしょうね、きっと。でもそれを押しつけず、聞き手一人ひとりが、自分なりの「愛」をイメージできるところが、ヴェルディ作品のすごいとこ ろ。「神」にしても、キリスト教の神だけでなく、「人智を越えた力」とか「お天道様」と言っても、十分伝わりそうです。だからこそキリスト教的価値観とは 距離のある日本の人々をも深く感動させてしまう普遍性があるのですね)。
 《スティッフェリオ》を知ったことで、これから《椿姫》を見る時の感動も一段と深まりそうです。

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