すべて納得の『魔笛』

2006年02月18日

 夕べは、すっかり興奮してしまいました。
 すかりハイになった私からメールを送りつけられた皆さま方、深夜の電話で安眠を妨げられた方、ごめんなさい……と言わなければならないほどの大興奮でした。
 この興奮の源は、ペーター・コンヴィチュニーが演出したシュツットガルト歌劇場の『魔笛』@オーチャードホール。
 この演出が、とーーーーーーっても素晴らしかったのです。
 『魔笛』は、モーツァルトで好きな順位をつけたら、一番目か二番目にあげたくなる作品なのだけれど、これまで演出上、納得できない点がいくつかあったのですね。それを、コンヴィチュニーがものの見事に解決してくれました。
 これまで私が納得できなかったのは、特に(1)夜の女王の、子どもを奪われた母としての哀しみや孤独が置き去りにされがち、(2)偽善的なザラストロが善人、正義として描かれる───という点です。

 社会的にはどういう評価を受ける人だとしても、子どもを奪われた母親の悲しみって、並大抵ではないと思うのです。これまでも、今も、そういう立場に置かれた女たちがたくさんいますよね。犯罪によって、戦争によって、個人や組織や国家から、子どもを奪い取られてしまった母親たちが……
 今回の夜の女王は、最初に登場するシーンで酒をあおっています。ワインをラッパ飲みです。心にぽっかり空いた穴に、いくら酒を注ぎ込んでも紛らわすことのできない悲しみと孤独。そして千鳥足でタミーノに近づき、「たらし込む」わけですね。
 タミーノは、純情無垢なボンボン。夜の女王の迫力に圧倒され、自分がパミーナと結婚式を挙げる映像(ダイアナ妃とチャールズ皇太子のウェディングの場面を使い、顔が見える場面はタミーノとパミーナになってました)を見て、すっかりぼおっとなってしまいます。
 純粋ないい人って、単純で心を操作されやすいのかも。すっかりパミーナを悪い権力者であるザラストロから救い出す気で乗り込んだのに、いざ行ってみると、タミーノは簡単に”ザラストロ教”にからめ取られていきます。カジュアルなジャケットとパンツを脱ぎ捨て、濃いグレーのスーツに、組織のメンバーの制服でもある白いガウンを羽織ります。

 ザラストロの組織って、友愛だとか叡智だとかを強調しておりますが、どう見てもカルト団体。そういう組織は、すごく耳に心地よく響く、「正しい」ことを声高に言うんですよね。オウムや統一教会だって、そうです。でも、やっていることはどうか……。
 だいたい、「あの女の所に置いておいたら、この子のためにならない」と、娘を無理矢理母親の元から拉致し、監禁するなんて、もうむちゃくちゃ。まさに「目的のためには手段を選ばず」のカルト的手法に他なりません。あのオウムも、「このまま生かしておいたら、ますます悪業を積むことになるから、今のうちに殺してあげることが、相手にとっていいことだ」なんてひどい理屈で人殺しを重ねてきました。天に財産を積むことが相手のためになると、お金をだまし取る宗教もありますね。
 それに、ここには復讐などはないと友愛を強調しておきながら、ザラストロがモノスタトスに対して行うむごたらしい体罰。容姿ゆえに蔑まれ、性格まで歪んでしまったモノスタトスは、哀れな人間でもあります。その彼に対する居丈高で、無慈悲な態度は、決して高潔で、博愛の精神に富んだ者のする行為ではありません。そこに、ザラストロの弱さ――外に向けては立派な風を装いながら、差別したり嫉妬したり感情的になったりといった人間としての弱点――があるとも思うのですけれどね。
 宗教だけではありません。世界を見渡すと、そういう国家(というか政府)もあるような気がします。たとえば、戦争を仕掛けておいて、後から「独裁者から人々を解放するためだ」とか「自由と民主主義を広めるためだ」とかの大義名分=正義を語るような国が……

 普段『魔笛』を見る時に、いちいちそういうことを考えているわけではありません。メルヘン調の舞台は、それはそれで楽しく、大好きです。でも、思い切り楽しんだ後で、ふと我に返ると、やっぱりモヤモヤっと納得しづらいものが残るわけです。
 コンヴィチュニー演出は、ザラストロのそういう表と裏のギャップを十分に描き出しています。国際会議で雄弁に語る(ザラストロは古い朝鮮語で演説し、ドイツ語の同時通訳がスピーカーから流れるという面白い設定)一方で、すぐにカッとなって理性を失い、モノスタトスを殺そうとまでする。で、その後でそんな自分に気づいて、落ち込んだり……
 ザラストロはパミーノを好きになったけれど、母親である夜の女王が結婚を認めるはずもない。というので、力づくで拉致して監禁してしまったのが真相でしょう。でも、かといってパミーノに嫌われたくないので、強引に関係を迫ることもできない。体面があるので、彼女がタミーノと結ばれるために、どうしようもない母親から救ってやったと、大義名分をでっちあげます。
 モノスタトスと同じような”野獣”的な部分をザラストロも持っています。それをコンヴィチュニーは、モノスタトスの後ろにザラストロが影のように寄り添うようにして二人を歌わせることで表現しました。
 なのに、信者たちはそういうネガティヴな面を見ようとしません。タミーノも同じようにカルトに巻き込まれていきます。その一方で、パミーノは違和感を抱き続けます。タミーノ恋しさに、一度はカジュアルな服から黒いドレスに着替えて、組織に合わせようとします。でも結局彼女は、自由な魂を、その組織にゆだねてしまうことを拒絶します。白いガウンを拒否しました。そのパミーノの行動に触発されて、組織のメンバーもガウンを脱ぎます。組織と教祖にがんじがらめになっていた心を解き放ちます。
 最後、舞台の前面に残るのは、侍女たちも去って本当に孤独になった夜の女王と、信者たちに離脱されてひとりぼっちになったカルトの教祖の姿です。
 
 ……と、書いていくと、さぞかし堅苦しい演出になっていたと思われるかもしれませんが、全然違います。面白い仕掛けがいっぱい用意されていて、何度も思わず笑ってしまいました。
 なかなかマインド・コントロールされず(つまり、人間らしさを失わない)パパゲーノは、教団にとって”規格外”。ということで放り出されたパパゲーノは、歌手になって踊りとおしゃべりを交えたテレビのショーに出演します。腰をくねらせながら歌い踊る、そのショーのおかしいことといったら……
 この演出では、観客席もピットの中も、舞台の一部です。冒頭、序曲からタミーノが大蛇に襲われる場面では、客席の明かりは照らされたままです。タミーノは、舞台上の群衆が迫ってくる中で、ピットの中に転げ込みます。かといって、やはり群衆が控えている観客席にも行かれません。2つの群衆に挟まれたまま、ピットの中を動き回ります。
 立っている者は親でも……じゃなくて、指揮者でも使えとばかり、指揮者にからむ場面も。舞台に近い所に座っているプロンプターの女性も、抱きつかれたりして、一役を担っていました。
 3人の童子は、最初の場面がボーイソプラノ3人、2回目の場面にはウェイトレスの女性3人、3度目はテレビのショーの後片付けをする掃除のおばさん3人というふうに、9人で演じ分けます。
 その9人が、パパゲーノが首つりをしようとする時には、全員で引き留めます。そしてパパゲーノとパパゲーナのアリアの時に、二人の子どもに転じて、なんともコミカルな出産シーンを演出します。
 いろんな意味で、今回の演出は、大人のための『魔笛』でした。
 
 素晴らしいのは、これだけ様々な工夫が盛りだくさんなのに、それぞれの動きが、音楽と素晴らしく調和していること。これはすごいです。
 歌い手も、知らない人ばかりでしたけど、とてもよかったです。特に印象に残ったのは、ザラストロのアッティラ・ユンと夜の女王のコルネリア・ゲッツ
 『魔笛』の上演では、この両役が鍵だと思うのですね。けれど、タミーノやパミーノ、パパゲーノにはついては満足することは多くても、ザラストロと夜の女王の両方に満足という公演は、実はあんまりありませんでした。
 今回の公演は、この二人が本当によかったです。私は席が1階の奥だったのですが、ユンさんの低音は、そこまで朗々と響いて、バスの醍醐味をたっぷり味わわせてもらいました。最近、韓国出身のいい歌手が活躍されていると聞きましたが、こういう人材を輩出しているんですね。
 ゲッツさんは、あの高いコロラトゥーラでも、声にしっとりとした潤いがあり、つややかでしなやか。大人の女性の色気を感じさせます。私は、夜の女王贔屓なので、心の底から満足しました。しかも美しい長身の方なので、黒いドレスにサングラスの衣装がすごくよく似合う。一幕目のアリアの時に、カメラが顔をどんどん大きく映し出していって、口のアップ、そして最後はのどの奥で声帯が震えている様子を映像で見せる(ここでも爆笑。コロラトゥーラを目で見せると、ああなるんですね)場面でも、どアップに耐えるのですね。
 タミーノのヨハン・ヴァイゲルは見た目もかわいい青年で、声もとっても純な感じ。アレクサンドラ・パインプレヒトは、そのピンと張った声が、主体的で意思を持った現代女性として描かれるパミーノにぴったり。パパゲーノのフロリアン・ベッシュの表現力もお見事。
 複雑な人間模様を描いている物語とは逆に、音楽はどこまでもきれい。オーケストラの典雅な演奏もよかったです。
 
 それから、字幕もあっぱれな出来でした。舞台の雰囲気とぴったり符合するような言葉選びがなされていました。
 私が字幕に感動したのは、ラ・ヴォーチェの『愛の妙薬』以来(あの時は素晴らしいと思ったら、作家の林真理子さんが書かれていだのでした)
 原語上演では、字幕はとても大事だと思います。ある程度の予習はするにせよ、『魔笛』などは何度も見た人が多い作品であっても、やはり今この時に何が語られ、何が歌われているかっていうのは気になりますから。
 日本語がこなれていなかったり、中途半端に(しかも、なんの法則性もなく)文語調と今風の言い回しが混じり合った字幕で違和感を感じることは、しばしばあります。
 でも、今回は舞台にマッチして、すんなり入ってくる分かりやすい言葉でした。
 字幕担当者にも拍手!
 
 というわけで、大満足。
 こういういい公演を堪能した後は、体中に元気がみなぎりますね。
 今週はお休みなしで仕事が続きますが、音楽のパワーで乗り切れそうです。
 4月の二期会の『皇帝ティトの慈悲』は、このコンヴィチュニーの演出。ご本人が一ヶ月間も稽古を指導されるそうで、これは相当期待が持てます。しかも、若手のモーツァルト歌いとしてピカイチの望月哲也さんがタイトル・ロールです。
 今回の公演を呼んできた文化村にも、大きな花まるを差し上げたい気持ち。ぜひ、コンヴィチュニー演出をまた呼んでね。

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