音楽を「見える化」したコンヴィチュニ演出に喝采

2006年04月24日

 新国立劇場の客席は、いつになく熱く、沸きに沸いて幸福感がみなぎっていました。
 上演されたのは、二期会の《皇帝ティトの慈悲》です。
 モーツァルト最後のオペラですが、公演の機会はあまりなく、私もナマで見るのは初めて。モーツァルト・イヤーだからこその演目、と言えましょう。
 ただ、あまり公演されないのは、それなりに理由があるわけで、TVやDVDを見る限り、率直に言って、それほど面白いオペラではない……もっと、はっきり言うと、退屈。なにしろ、力より慈悲をもってローマを統治した皇帝を称えるストーリー。許しは怒りより強く、愛は憎しみより勝る、といった説教臭さも感じます。
 ところが……
 演出家のピーター・コンヴィチュニーさんは、そういう先入観を木っ端みじんに吹き飛ばしてくれました。
 シュトゥットガルト歌劇場の《魔笛》の来日公演で見せてくれた、コンヴィチュニー・マジックが、《ティト》でも炸裂しました。

 表面的には、ティトは、噴火災害の被災者のために涙し、市民が望まない外国の女性との結婚をあきらめるような、国民思いの皇帝です。次に自分の親友(セスト)の妹(セルヴィーリア)を妃にしようとしますが、この妹が別の男性(アンニオ)を愛していることを知り、二人の幸せのために身を引きます。自分が皇妃に指名されないと逆恨みした女(ヴィッテリア)が、セストの自分に対する愛情を利用して、皇帝暗殺未遂事件を引き起こしますが、この二人も苦悩の末に、許してやるのです。
 でも、モーツァルトは本当にそんな薄っぺらいオペラを書いたのでしょうか? 《フィガロの結婚》で権力者のアルマヴィーヴァ伯爵をしゃれのめし、《ドン・ジョバンニ》で当時の社会を支配していた教会的な価値観をあざ笑ってみせたモーツァルトが?
 コンヴィチュニー演出は、作品を深く掘り下げることで、表のストーリーをなぞっていたのでは見逃してしまう、仮面の奥にある人間くさいティトの内面を描き出します。
 ティトは、それほど清く正しい人間というわけではなさそう。贈り物の金貨にニンマリとし、好きな女性にムラムラと欲情したりします。なのに、人々の前では、常に「慈悲深い皇帝」として振る舞い続けます。彼が、素の自分に戻れるのは、誰も見ていないトイレの中だけ。だから、彼は何かというと、トイレにこもります(そのドアには『殿方』と書かれ、ハート型の窓がついているのが笑えます)。
 それでも、他人が信用できない彼は、人々の会話をこっそり隠れて立ち聞きして、みんなが自分をどう語っているのか知ろうとします。皇帝という強い権力を持つ立場にいながら、本当は小心者のようです。
 アンニオが結婚したがっていることも、盗み聞きで知ったうえで、あえてセルヴィーリアを皇妃の候補に選ぶのです。そうしておいて、セルヴィーリアがアンニオへの思いを告白するのを聞いて、自分が身を引くことで二人の幸せを実現してやる、と言うのです。そうすることで、この二人の忠誠心と人々の間の自分の評判を高めようという作戦。つまり、慈悲深さを自分で演出しているのですね。
 暗殺事件では、影武者を何人も用意しておいて、今風に言えば心神喪失状態となったセストの手を取って、影武者の一人を殺させています。でもこの時は、さすがに友人に襲われたことに、ティトはショックを受けます。そのうえ、セストはヴィッテリアをかばって、事件を起こした理由を言おうとしません。ティトにしてみれば、親友による二重の裏切りであり、心は千々に乱れます。怒りと法に基づいてセストを猛獣の餌食にして死刑にするか、それとも慈悲を持って対応するべきか。結局、後世の人たちから「慈悲深い」と評価されることを選んだティトは、セストを許します。その結果、後悔のあまり死を望んでいるセストを、簡単には死なせず、延々と生かすことで苦しみを長引かせ、裏切りへの報復も果たすのです。そういう計算高さ、冷徹さも持っています。
 
 コンヴィチュニー演出は、あくまで作品と観客を中心に組み立てられています。当たり前のようですが、最近のいわゆる”斬新な”演出には、演出家が自分の”個性”を見せようとしたり、音楽以上に演出が注目されるようにと、奇をてらったものが少なくありません。彼の演出は、そうした目立ちたがり演出とは、きっぱりと一線を画しています。
 彼は、記者会見でもこう語っています。
「私はあえて作品と無関係な独自の発想やアイデアを盛り込むことによって、作品に対する興味を湧かせようということは毛頭考えておりません。私は外から新しいものを放り込むというのではなく、私自身が作品の中に深く潜入してゆき、そこから得たものを浮かび上がらせてゆくという演出をします。その際に最も重要な位置を占めるのが音楽です。続いて台本です」
 私は、流行の”斬新な”演出にすっかり辟易して、現代的な演出は性に合わないと思いこんでいました。けれども、コンヴィチュニーさんの演出では、かなり奇抜と思われる仕掛けも多いのに、それが決してイヤではなく、それどころか魅力的に感じられます。音楽を止めたり、アリアの歌い手を変えたり、いわば掟破りのような手法も使っているのに、そうした作為より、最後には音楽が心に残る。なぜでしょうか。彼は、同じ会見でこうも言っています。
「残念ながら私の数多い演出家仲間や同僚の中には、音楽の知識がわずかしかない、または全く無いかのいずれかであるということが多いという残念な現状があります」
 なるほど。著名な指揮者を父に、オペラ歌手を母に持つコンヴィチュニーさんは、音楽の中で育ち、彼自身も音楽教育を受けています。だからこそ、作品の音楽に深く入り、その本質をつかみ取る術を知っているのですね。
 このコンヴィチュニイズムによって、音楽が形をともない、耳だけでなく、目にも訴えて来るのです。最近流行らしい、ビジネス用語(だと思う)を拝借して言うならば「音楽の見える化」ですね。隠されたものを明らかにし、不透明なものを透明にし、抽象的なものを具体的な形にして呈示する。visualizeです。
 その象徴が、1幕と2幕に一回ずつ舞台に出てくる、クラリネット奏者です。セストがティト暗殺を決意するアリアと、ヴィッテリアがすべてをティトに告白する決心をする時のアリアに寄り添うようにして流れるクラリネットの美しい音。これを演奏する奏者に、コンヴィチュニーは黒い衣装を着せて舞台に上げ、演技もつけました。役名は〈死〉。死と絶望は、甘美な音楽とともにやってくる、というわけです。
 もしこのクラリネット奏者がピットの中で普通に演奏していれば、私のようにぼんやりした聞き手は、ただ漫然と聞き流してしまったでしょう。それが、こうやって目に見える形をとることで、モーツァルトが音楽に込めた意図に気づくことができ、驚きと感動を覚え、そしてその音楽は、映像とともに記憶にも深く刻み込まれるというわけ。
 
 しかも、ところどころ刺激的な演出で客席を楽しませます。たとえば――
 セストへの対応に迷い、「心を変えて欲しい」と歌うティトは、自らの胸を切り裂いて心臓を取り出してしまいます。で、バッタリ倒れると、やおら人が出てきて叫びます。
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか〜」
 客席の中から、「は〜い」と手を挙げる者あり。で、その医者役が舞台に上がって、新しい金属製の(たぶん機械仕掛けの)心臓を”移植”します。その医者と看護婦役の演技に、客席は大笑い。息を吹き返して歌い出すティト。ところが、医者がモードを間違えてしまったらしく、なんと歌詞は日本語。リモコンで切り替えるたびに、韓流、フランス語、ドイツ語と変わり、やっと原語のイタリア語に戻りました。その後、退場するティトは、サイボーグになったせいか、動きがなんだかギクシャクと機械的。この辺り、客席は笑いに次ぐ笑いでした。
 闘技場で罪人たちを待ちかまえている猛獣にも笑えました。おそろしいライオンの声をたっぷり響かせた後、舞台に現れたのは、子役が着ぐるみをかぶったかわいい2頭の「らいおんちゃん」。この子たちが手を振り回すと、布をかぶせられた罪人たちが、大げさに逃げまどう姿がおかしくてたまりませんでした。
 随所にこうしたユーモアをちりばめ、観客を舞台と音楽に引きつけ続けます。「立っている者は指揮者でも使え」とばかりに、指揮者も大事な役者になるのがコンヴィチュニー流。宮殿が焼け跡で始まる2幕には、指揮者のベール・スダーンまで、顔に煤を塗り、白い灰をかぶった状態で現れます。彼の役者ぶりもお見事。
 しかも、コンヴィチュニーにとっては劇場全体が舞台。暗殺を逃れたティトは、休憩中にロビーを歩き、健在ぶりをアピール。2幕の最初は、客席の最前列に座って、観劇。その辺りで歌も歌い、途中からピットの中を通って舞台に駆け上がります。
 こうした意表をつく仕掛けで、さらに笑いと驚きのどよめきが起きます。
 笑いは時に、涙と紙一重だったりもします。また、権力者に対する毒を含んだ風刺が込められたユーモアもふんだんにちりばめられたりしています。そうした風刺こそ、「すべてのオペラは政治的」という考えが基本にある、彼の真骨頂、と言ってもいいかもしれません。
 
 ところで、タイトルにもある「慈悲」という言葉がちょっと気になります。
 権力者の「慈悲」は、施される側にとっては迷惑なことも。セストやアンニオに飲み物(ビール?)を振る舞う場面では、セストは飲めない口らしいのですが、その彼にティトは飲み物を強いるのです。セストが嫌がっているのに、ティトは気づかないのか、それとも気づかぬふりをしているのか……
 今の世でも、民主主義を恩典を独裁国家の民衆に与えるという名目で、その民衆の命を奪う戦争を正当化する大統領がいたりもしますし、これは古今の権力者に相通じる特徴と言えるのかもしれません。
 偉大で寛容な人間のように振る舞いたがる、世論や歴史の評価を気にする、疑い深くスパイや盗聴などをやらずにいられない……こういうティトの性行も、すべて近現代の権力者たちに共通するところがあるような気がします。
 舞台の幕には大きく、こう書かれています。
 ZUSTANDE
 WIE IM
 ALTEN ROM
この有り様では古代ローマと変わらない
 オペラの最後に、この幕が下りて、照明は2度客席を映し出します。
 この言葉に、「今も」と付け加えると、よりコンヴィチュニーさんの意図がはっきりするでしょう。
 で、その「意図」とは?
 それは個々で考え、みなで議論してください、というのが彼のオペラ演出に託した思いのようです。
 オペラを通して、様々なことを感じたり、しみじみ考えたり、議論する材料を呈示する。これこそがコンヴィチュニー流。
 音楽の本質を見せつつ、社会の現実を考えさせる、そんな今回の公演でした。
 
 コンヴィチュニーさんは、一ヶ月近く日本に滞在して、歌い手さんたちに稽古をつけました。その彼が、一番最初にやったことが、合唱の一人ひとりに握手をして「よろしく」と声をかけることだったそうです。
 ともすれば「その他大勢」として扱われがちな合唱ですが、彼の演出では、民衆もそれぞれが人格を持ち、人生と生活を背負った一人ひとりの人間として存在しています(そうした演出は、カーテンコールまで徹底していました)。
 稽古の間、歌い手さんに向かって「ダメだ」と否定するような言い方はせず、「とてもいい。でもこういう風にできないか」という感じで指導をされていったそうです。今回の公演監督の多田羅迪夫さんは、「すぐれた演出家は、すぐれた教育者であることを、改めて知らされた」と感嘆しておられました。
 
 そういう演出家の下で、歌い手さんたちも学ぶところが多かったよう。
 本番ではその成果をたっぷりと見せて聞かせてくれました。
 キャストは次の通りです。
  ティト       望月哲也
  ヴィッテリア    林 正子
  セルフィーリア   幸田浩子
  セスト       林美智子
  アンニオ      長谷川忍
  プブリオ(近衛長官)谷 茂樹
  死         山根孝司
  
 望月さんの魅力は、なんといっても品のある伸びやかな声。モーツァルトが日本に使わしてくださったんじゃないかと思うほどですが、この役柄も、まさにもうぴったり。2幕目が始まる時のトークも愉快で、さらにアリアは圧巻でした。今も、あの美しい声が頭の中に鳴り響いています。
 名前からも分かるように、歌い手の大半は女性。林美智子さんの男役は、少年っぽさを残した美しい青年で、女の私が見ても、ゾクゾクしてしまうほどです。1幕目の暗殺を決意するところのクラリネットと共に歌うアリア、さらに自殺未遂のアリア(と勝手に呼んでいる)お見事でした。特にA組2日目の公演では、本当に拍手が鳴りやまないとはこのこと、というほど、長く熱い拍手をもらっていました。たぶん、私が今まで劇場の中で聞いた、最長拍手。もちろん私も、思いっきり拍手しました。ホント、よかったです。
 林正子さんは、歌も素晴らしかったですが、演技にも魅せられました。セストやアンニオの前の女王様然とした態度といい、まるで女子プロレスを思わせるような大胆な動きといい……舞台に出ている間中、「主役はア・タ・シ」と言わんばかりの抜群の存在感でした。
 幸田さんの声は、透明感があって、とってもきれい。それにかわいらしい。長谷川さん、小柄で細い(ウェストなんて54センチくらいしかないんじゃないかしら)のに、どうしてあんなに豊かな声が出るんでしょう。唯一の低音、谷さんもユーモラスな演技と、迫力のある声で、公演をしっかり支えていました。
 山根さんは、ベルギーで活躍され、現在はNHK交響楽団のメンバーでもあるそうです。クラリネットの魅力をたっぷり聞かせてもらった感じ。それに演技も達者で、舞台の上を走ってすぐに吹き始めるなんて芸当も、軽々こなしていました。
 
 キャストは、もう一組。
      ティト        高橋 淳
  ヴィッテリア     吉田恭子
  セルフィーリア    菊池美奈
  セスト        谷口睦美
  アンニオ       穴澤ゆう子
  プブリオ       大塚博章
  死      エマヌエル・ヌヴー
 演技派の高橋さんのティトは、見るからに下心があって、一筋縄ではいかなそうな感じ。こういうクセのある人物設定となると、俄然、輝きますね、高橋さんは。
 高橋さんに限らず、この組は演技派ぞろい。とりわけ、目と耳を引いたのが、谷口さん。男っぽいセストで、ヴィッテリアを思う一途さが、なんだかとっても色っぽく、そそられました。華があるというか、見栄えもしますね。声量の豊かさと表現力は、とても今回が二期会オペラデビューとは思えないほど。プログラムによると、《カルメン》のタイトル・ロールや《ドン・カルロ》のエボリ公女もレパートリーにあるようですが、どちらも早く聞いてみたいですね。《アイーダ》のアムネリスもやって欲しい。そのうち《トロヴァトーレ》のアズチェーナなんかも……なんて、私の大好きな役をやってもらいたい、待望の若手メゾが現れたわ〜と、すごくうれしい発見でした。
 
 二つのキャストでは、演技にも細部で違う点がありました。たとえば、ティトに飲み物を強いられる場面では、林セストは途中でこっそり中身を捨ててしまいますが、谷口セストは無理矢理飲んで、ゲホゲホしたりしていました。日本語の台詞も、望月ティトと高橋ティトでは若干の違いがあり、両方観ることができて、より深く、このオペラとコンヴィチュニー演出を味わうことができたような気がします。
 演奏は、スダーン指揮の東京交響楽団。ビブラートをかけない、古楽的な奏法で、モーツァルトの典雅な世界を楽しませてくれました。終演後、オケのメンバーがニコニコしながら舞台に向かって拍手をしているのが印象的でした。
 
 ただ、これだけ素晴らしいオペラが、日本では東京で4回演じられただけで終わりというのはあまりに残念。
 ぜひ再演を望みたいですね。東京だけでなく、関西や九州、北海道など地方での上演やDVD化などもして欲しい。
 それにしてもなぜ、NHKはこれを録画して放送しないんでしょう。モーツァルト・イヤーなんだし、めったに上演されない、しかも最高の演出家を招いての公演なのですから、ぜひとも全国の人たちにも「あまねく」伝えていくことこそが、公共放送の使命じゃないのかしらん。放送すれば、DVDで録画しておくこともできるのに……
 そして、ぜひコンヴィチュニー演出で別の作品も見たいですね。《ドン・ジョバンニ》とか《フィガロの結婚》とか《コジ・ファン・トゥッテ》とか……ワーグナーのリングも、コンヴィチュニー演出なら、挫折することなく一気に観てしまいそう。
 二期会でもやって欲しいですし、初日には今度新国立劇場の音楽監督になる予定の若杉弘さんご夫妻が見えてましたが、こちらの方でもぜひ! コンヴィチュニー演出なら、全国どこでも駆けつけたい。お金を時間さえあれば、ヨーロッパにも駆けつけたい。今はそんな気持ちでいます。
 何はともあれ、このオペラが決して退屈な作品でないことを知らしめてくれたピーター・コンヴィチュニーさんと、素晴らしいパフォーマンスを見せて聞かせてくれた歌手とオケのメンバーに喝采を!

 

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