舞台からタマシイを受け取る〜《ロープ》を観て

2007年01月23日

 野田地図第12回公演《ロープ》を見てきた。
 私は、作品から伝わってくる野田秀樹さんの感覚とか感性、人間へのまなざしが、とても好きだ。《オイル》やオペラ《マクベス》の演出を通じて描かれた彼の戦争観にも共感する。ただ、野田さんの芝居は、ドタバタやしゃれやジョークが満載で楽しい半面、とても重い課題を受け取ったような気がして、見た後でいろいろ考えさせられる。今回もそうだった。
 プロレスを題材に、暴力と人間社会の本質をえぐっていく。メインのセットはリング。そこに張られたロープにレスラーが何度も跳ね返るうちに、リングの中も場外も興奮してくる。その興奮ぶりを、リングの下に隠れ住むコロボックルの女の子、タマシイ(宮沢りえ)がこう実況中継する。
「まるで催眠術だ。いったあ!催眠術にかかったあ!どーんだ。そこで止まれないのかプロレスラー。止まれるはずだ、人間ならば。目覚めよ催眠から、レスラーならば。しかもその名にプロがつくなら、君らが職業戦士であるならば」
 リング上で乱闘を繰り広げているのは、引きこもりのプロレスラー、ヘラクレス・ノブナガ(藤原竜也)と悪役レスラーのグレイト今川(宇梶剛士)ら。それを、売れないテレビ番組ディレクターで恐妻家のD(野田)、その妻JHNDDT(渡辺えり子)が放送する。ノブナガが今川を半殺しにする場面で、普段は0.02%のしかとれずに「弱視」とJHNDDTからバカにされている番組の視聴率が2.0%に跳ね上がる。
 次の試合では、空気銃、しまいには毒ガスや実際の銃まで使われ、暴力が激しくなればなるほど視聴率は急上昇。ロープの催眠術にかかってしまったように、人々はさらに激しい暴力を求めていく。
 その視聴率も50%(この数字を芝居の中でJHNDDTは「金星人の視力」と呼ぶ)まで上がったところで、それ以上は伸び悩む。その時のディレクター夫妻の会話。
 
 JHNDDT「こんなにも暴力をみせているのに、あとの50・0はどこにいるの?」
 D「美術館に行ってるんじゃないかな」
 JHNDDT「そいつら、どういう人間よ」
 D「理性を持った人間だよ。まだ半分の人間には理性があるんだ。『もう撤退しよう、暴力の現場から』半分の理性がそう言っているんだ」
 JHNDDT「そう、わかった。金星を超えるにはどうすればいいか」
 AD「どうするんです?」
 JHNDDT「理性を超えるのよ。(中略、Dに覆面をかぶらせる)理性に覆面をさせてリングにあげればいいのよ」
 
 再び視聴率は急騰。
 覆面をした相手は、誰だか分からない。顔が見えない相手の痛みや苦悩は、よほど想像力を働かせなければ、リアリティーを感じられない。その想像力は、暴力の連鎖に熱狂している間にマヒしていく。
 この熱狂の背後にいるのが「ユダヤ人の社長」と呼ばれる正体不明の誰か。その人が、DやJHNDDT、純情そうに見えていたノブナガらも煽っている。現実に戦いの当事者となった者は、「もう、やめたい」と思っていても、やめられない。
 しかも、暴力はそれを美化する理由がつけられて正当化される。ノブナガが最初に今川を半殺しにした時は、「今川のアジアへの暴言=言葉の暴力が許せなかった」という理由がつけられた。続いてノブナガは「すべての暴力と戦う」と宣言する。激しい暴力も、タマシイはこんなふうに実況する。
「正義は我らにあり、正義は我らにあり。そんなタマシイの叫びが聞こえてきます」「これは正当防衛。正しい暴力です」「これとて味方を救うための暴力。やむをえません」
 舞台には、警察官のような制服を着た怪しげな男(中村まこと)がしばしば顔を出す。男は、今川の恋人(赤星真由美)に暴力を振るったノブナガたちを逮捕してくれと迫られると、こう言う。
「職業柄われわれは、血を流しているものの言葉をきき、流血に至らしめたものを見つけ出し、逮捕をしなければなりません。しかし、ここは、リングというプロレスラーの戦場、この血の意味を考えているところです」「血は流れるところによって、その意味が変わるのです。戦場で血がどれだけ流れようとも、誰も逮捕されません。戦争を殺人事件とは呼びません」
 この台詞は、チャールズ・チャップリンのこんな言葉を思い出させる。
「一人殺せば悪人になりますが、100万人殺せば英雄と言われるのです」

 そういえば昨年末、TBSサンデーモーニング拡大版で戦争と平和について考える特集があった。そこで戦争について、世界各地で行われた街頭インタビューが紹介されたが、それが人間と暴力(戦争)を考えるうえでとても興味深かった。たとえば中国でのやりとり。
 Q 戦争があってもいいですか?
 女性 あって欲しくない。平和が好きです(以下略)
 Q ではなぜ、中国はかつて抗日戦争をしたのですか。
 女性 あれは抵抗です。主体的ではなく強いられたので仕方ないです。
 
 次は、高齢の男性とのやりとり。
 Q 戦争があってもいいですか?
 男性 もちろんダメです
 Q 時と場合によっては戦争をしてもいいと思いますか?
 男性 (無言で首を横に振る)
 Q かつて中国は抗日戦争をしましたよね。どう思いますか。
 男性 あの時そうしなかったら、今のような幸せな生活があると思うかい? そうだろ?

 ロシアでは、中年の男性が、かつての自国の戦争は「侵略を受けたからです。みんな自分の土地を守ったのです」と自衛が目的だったと強調した。ところが、「アフガニスタンでも戦争をしましたね」と突っ込まれて、ようやく自分たちの国が侵略を行った歴史を思い出したらしい。
「そうか、戦争をしたのですね。ということは、我々は戦争の応援をしたのですね」

 アメリカは、自分や味方の暴力は「テロとの戦い」と正当化し、敵対する者の暴力は「テロ」と非難する。その言葉の使い分けを、日本の政府やメディアも無批判に受け入れている。その結果、イスラエル軍によってパレスチナの民間人がいくら攻撃されようとも、「空軍による空爆」「武装集団幹部の拘束を狙った急襲作戦を展開」などと表現するのに、パレスチナ側からの反撃は「自爆テロ」と論難するのだ。どちらも民間人を無慈悲に殺傷する行為に変わりがないのに。
 意図的に、あるいは無意識のうちに、許される暴力と許されない暴力を使い分ける人間社会の欺瞞。暴力に熱狂し煽っていながら、常に観客席や視聴者という立場に身を置いて、自分の手はきれいなつもりでいる人々の偽善性。私たちは、自分自身の中にそういう欺瞞や偽善性があり、平和を愛しながら暴力を称賛する矛盾した感情を有していることを、よくよく自覚しなければならないのではないか。
 なのに、社会にはそういう自覚をますます希薄にする仕掛けや仕組みがいっぱいある。「ユダヤ人の社長」のように、その正体も、本当に存在しているかも分からないものに、いつのまにか自分が動かされてしまっていたりもする。漫然と生きていると、自分の中の欺瞞性、偽善や矛盾に気づかないまま、無意識のうちに暴力を肯定してしまいがちだ。 
 
 人間の暴力的な本質が、もっともあらわになるのが戦争だ。芝居の舞台は途中から、ヴェトナム戦争のまっただ中へと飛ぶ。
 「私は未来からきたコロボックルなの」と言っていたタマシイは、実は「未来」ではなくヴェトナムのミ・ライの出身だったのだ。
 1968年3月16日朝、ソンミ村のこのミ・ライ地区はアメリカ軍の急襲を受け、無抵抗の村人504人が惨殺された。その中には女性が182人(うち17人が妊婦)、子どもが173人(うち生後5ヶ月以内の赤ん坊が56人)、60歳以上の老人が60人含まれていた。「ソンミの虐殺」と呼ばれるこの事件は、メディアで暴露され、大問題となった。だが、軍事法廷で有罪とされたのは指揮官のカリー中尉ただ一人。しかも、終身刑の判決は段階的に短縮され、なんと3年ほどで釈放されている。ここまでは史実。
 芝居では、あまりの野蛮な行為に耐えられず、一人の米兵が脱走する。彼は、瀕死の女から生まれ落ちたばかりの赤ん坊を預かる。そして、日本に逃げ込み、死ぬまでひっそりと隠れながら住み、赤ん坊は美しい女性タマシイに育ったという設定だ。この脱走兵は、暴力の連鎖を繰り返すうちに激しさがエスカレートしていく、というロープの催眠術から目覚めて、リングの外に脱出したレスラーのような存在。
 タマシイは、おぞましい虐殺の状況をプロレスのように実況中継した後、こう語る。
「あったことをなかったことにしてはいけない(中略)。天気のいい朝、4時間で滅びたミライの村が、無かったことになる時、あなた達の未来もなくなるよ。私は、このリングの下に、『力』を語る為に棲みついたのじゃない。『無力』という力を語るために棲みついているの。人はいつも、取り返しのつかない『力』を使った後で、『無力』という力に気づく。でもね、ミライから来たタマシイが言っているんだ。だから、まだ遅くはないのよ。私のミライは滅んだ。けれども、あなた達の未来はまだ、天気のいい朝に、4時間で滅んではいないのだから」
 タマシイは、戦争によって奪われた命の象徴であり、悲惨な過去を忘れまいと誓う人々の決意の表れだろう。けれども、乱闘が終って日常に戻ると、タマシイの姿は消えている。Dたちマスコミを含めて、誰もがタマシイの存在を忘れてしまったように、次の仕事場へと移っていく。
 一人ノブナガだけが、タマシイの言葉を受け止め、それを一から育ててみようと思う。
「このタマシイを、どこかのリングサイドで、青年の純情が、育ってみようと思うんだ。このタマシイの代わりに、消えてしまった君が、君そっくりのタマシイになって、どうか姿を見せますように。人類の力が、猛り狂い、押しとどめようのない姿に変わった時に、リングの下から、どうかどうか、君そっくりの、びしょびしょになったタマシイが、どうか姿を見せますように」

 敗戦から60年を過ぎ、戦争で奪われた人々のタマシイの姿が見えにくくなっている。逆に、「あったことをなかったこと」にしたがる風潮の方が勢いを増している。日本の政府は、米軍によるイラク侵略、つまり戦争という究極の「暴力」を「支持」した。そして、「『無力』という力」を謳った憲法も改正されようとしている。
 芝居を通して、私は舞台から小さなタマシイを受け取ったような気がした。今のような時代だからこそ、私の中でもタマシイを育み、守っていかなくては、と思う。
 
 こういうシリアスなテーマを、笑いと共に見せてしまう野田さんは、本当にすごい人だ。この作品の脚本は『新潮』一月号に掲載されているが、ここにはない台詞が芝居の中では出てきたりするところをみると、稽古しながら役者さんたちと共に、さらに作品を練り上げてきたということなのだろう。演劇とは、すべてが創作活動なのだな、と思う。
 出演者の中では、透明感のある宮沢りえさんのタマシイが、とりわけ印象的。虐殺の実況中継は聞くだけでもおぞましいが、彼女は「現実から逃げるな。あったことをなかったことにはさせない」と迫ってくる。野田さんらしい、早い言い回しや言葉の嵐の中でも、タマシイの言葉は明瞭に、力を持って心に届いてくる。過去の苦労や心の傷を、むしろ糧にして、いい女優に成長したんだなあと改めて実感。
 本当に、いい芝居を観た。

 

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