誰が彼を殺したか〜コンヴィチュニーの《オネーギン》を観る

2008年09月16日

 頭の中で、まだポロネーズが鳴っています。そして、あの慟哭も……
 ペーター・コンヴィチュニー演出《エフゲニー・オネーギン》by二期会@東京文化会館の感動が、なかなか覚めません。元々大好きなオペラの一つではあったけれど、ここまで深い感動を覚えたのは、やはり何と言っても心理ドラマとしてこの作品を見せてくれたコンヴィチュニーの演出の妙ゆえ。
[写真提供:竹原伸治氏] 
        

 
 前半(1幕)は、比較的穏やかに時が流れます。格別奇をてらった仕掛けもなく、田舎の人々は日常の生活を送り、若者たちはくったくなくはしゃいでいます。そののどかさと3人の若者(レンスキー、タチアーナ、オルガ)の幼さ、子供っぽさには、いささか苛立ちを覚えるほど。それは、そっくりそのまま、1人だけ大人の世界を知っているオネーギンの心情でもありましょう。


 それが、後半(2幕、3幕を続けて上演)になると、息詰まるような展開を見せます。
 とりわけ凄かったのは、オネーギン(黒田博)レンスキー(樋口達哉)の決闘場面から3幕の冒頭のポロネーズにかけて。
 元々友人同士だった2人なのに、オネーギンが腹いせにレンスキーの恋人オルガにちょっかいを出したことが原因で、レンスキーが申し込んだ決闘です。大勢の人たちの前でやり合った手前、引っ込みが着かなくなりましたが、いざ、その場になると、2人とも実はやりたくない。「お互いに笑い合って、この手を血で染める前に、仲良く分かれられないだろうか」と、それぞれが内心は思っているのです。
 しかし、そこにいた人々が、それを許さない。黒いコートを着た男たちが、無言で2人を囲みます。その輪がどんどん小さくなり、2人を追い詰めます。2人は逃げることもできません。
 それまで合唱の1人ひとりにも顔と個性があったのに、この男たちの集団は帽子を深くかぶり、表情も分かりません。誰ということはない、いわゆる「世間」なのでしょう。それは、見ている観客(私も含めて)でもあります。「やるって言ったじゃないか」「早くやれ」「これをやらないと次の展開が始まらない」……そんな期待や要求が籠もった「世間」の視線は、2人が「ごめん、やりすぎた」「俺も言い過ぎた」と「笑って分かれる」道を閉ざします。このオペラのこの場面だけでなく、様々な争い事、日常の人間関係のいざこざから大きくは戦争に至るまで、「世間」が当事者を追い詰め、逃げ場のない状態にもっていってしまうことはありがちで、それを暗喩しているかのようです。
 黒コートの男たちに包み込まれて、2人の姿が見えなくなった時に、「バン」と銃声が響きます。人の群れからこぼれるように、崩れ落ちるレンスキー。
 誰が彼を殺したのでしょう。外からは見えません。本当に引き金を引いたのは、「世間」なのかも……
 
 「死んだか」「死にました」――その宣告にオネーギンは衝撃を受けます。決闘とはいえ、まさか本当に相手を殺すつもりなど、なかったのです。プログラムの解説によれば、当時は拳銃の性能が悪く、決闘してもせいぜいケガをするくらいで、死者が出ないのは珍しくなかった、とのこと。
 この決闘の場面からすぐに3幕冒頭のポロネーズが始まります。
 男たちは、その場で黒いコートを脱ぎ捨て、タキシード姿となっていそいそとパーティに向かいます。「世間」、すなわち責任のない第3者とは、なんと残酷で、なんと移り気で、なんと忘れっぽいことでしょう。
 脱ぎ捨てられたコートがレンスキーの死体を覆います。オネーギンは、そのコートを夢中ではぎ取り、レンスキーを揺さぶります。目を覚ますはずがありません。
 それでもオネーギンは、この現実を受け止められません。「これはなにかの間違いだ」と思いたい。気を落ち着けようと、震える手でタバコに火をつけます。詩人だったレンスキーのノートをめくります。そこには、おそらくはオネーギンに対する友情の気持ちも記されていたのでしょう。オネーギンは後悔で気も狂わんばかりです。
 彼はレンスキーの死体を抱き上げ、曲に合わせて踊ります。この曲は、元々は貴族の館でのパーティの場面として作られている音楽です。先ほど、コートを脱ぎ捨てた男たちの向かった先では、この音楽をバックに華やかなダンスが繰り広げられているのでしょう。でも、同じ時にオネーギンはレンスキーの体を抱いて身もだえし、うめいていたのです。彼の慟哭が、胸に突き刺さります。
 黒田さんの迫真の演技もあって、オネーギンの後悔、苦悩、そして孤独を痛いほど感じました。人間がいちばん辛いのは、1人でしんみりいる時よりも、大勢の人が楽しく日常を送っている時に、自分だけが取り残され、1人不幸でいると感じた時ではないでしょうか。華やかなポロネーズで、にぎにぎしいパーティの場面を想像させることで、そんなオネーギンの孤独がさらに際だちます。思わず、涙がじわ〜っ。
 しかも、男前の黒田オネーギンが、若々しく可愛い美男子の樋口レンスキーを抱いて踊るシーンは、尋常ならざる鬼気迫る姿でありながら、ぞくぞくするような美しさがありました(樋口さんの死体の演技もうまかった!)。この演出は、ヨーロッパのいくつかの劇場でも上演されているとのことで、そのうちスロヴァキアの劇場でのポロネーズの場面の写真がプログラムに掲載されていますが、2人ともメタボ体型の大男で、まるでヒグマが抱き合っているかのよう。う〜ん、これではちょっと泣けないかも。今回の二期会公演Aキャストの舞台は、コンヴィチュニーによるこの作品でもっとも美しい舞台になったのではないかしらん。
 
 そしてオネーギンとタチアーナ(津山恵)の再会。
 タチアーナは夫のグレーミン公爵(佐藤泰弘)や、何人かの取り巻きと一緒に、2階バルコニー席にいます。1幕の幼さはまったく消え失せ、美しくも品のある大人の女性に成長しているタチアナの姿に、舞台上から気がつくオネーギン。オネーギンの方は、まるで時間が止まっているかのように、あの頃とまったく変わりません。かつてはタチアーナを見下ろして説教したオネーギンですが、今や立場はまったく逆転しています。オネーギンがタチアーナを見上げている、この関係を、2階の客席を使うことで視覚的に印象づける演出です。しかも、前半に幼さを強調する役作りのおかげで、タチアーナの麗しい変身ぶりにはハッとさせられます。
 オネーギンを見て動揺するタチアーナ。その後、オーケストラピットを囲む回廊で、2人は深い谷間(ピット)を挟んで、お互いを求め合います。そして、ようやく近寄って一瞬抱き合う2人。けれどもタチアーナは彼の腕をふりほどき、「私は一生夫に尽くします」と宣言します。少女時代にオネーギンに宛てて書いて、突き返されたラブレターを泣きながらちぎっては捨て、ちぎっては捨て、さらにいつまでも細かくちぎり続けるタチアーナの仕草には、言葉では拒絶していながら、オネーギンへの思いをなかなか破り捨てることができない辛さが伝わってきます。
 それでもタチアーナは過去の自分には戻ろうとはしません。彼女はもう夢見る少女ではないのです。泣きながら、でも今の現実に踏みとどまります。
 おそらく、タチアーナは分かっているのです。すぐ目の前にある幸せに気づかず、今に満足することなく、常に外に「もっと別のもの」を求めるオネーギンは昔と変わっていないし、これからも変わらないだろう、と。ここで自分を心底愛してくれている夫を捨ててオネーギンと駆け落ちしても、彼の心はたぶん自分にずっと止まることはないし、誰も幸せにならない、と。それに、信心深い乳母に育てられたタチアーナには、神から祝福されていない結びつきを拒絶する気持ちもあったでしょう。ふっと、《トラヴィアータ》でジェルモンがヴィオレッタを説得するアリアを思い出しました。
 こうしてオネーギンは、タチアーナにとって、レンスキーや乳母、オルガといった思い出の人々の中へと組み込まれていくのです。忘れられない、でも、もう過去の人です。タチアーナは、涙を拭いて、今の自分の前にある道を歩んでいくのでしょう。母や乳母と同じように、「習慣(慣れ)は神様からの贈り物。それはいつの間にか幸福にすりかわる」とつぶやき、グレーミン公夫人としての生活に幸せを感じるようになっていくのかもしれません。でも母たちの世代とは異なり、彼女は自分でその道を選択しているのです。グレーミン公との結婚は、母親に懇願されてやむなくだったかもしれませんが、そこに止まることは、彼女自身が決めたのです。
 
 こんな風に見ていて想像力を刺激されながら、登場人物の心理を心で感じ取っていけるコンヴィチュニー演出に、拍手拍手です。
 それに歌い手たちはよく応えていましたが、特に黒田さんの表現力は素晴らしかったです。前半、飲んだくれて娼婦っぽい女たちと戯れるようなシーンもあるのですが、どんなに崩れても、オネーギンにはどこかに品というか、大人の男の色気というか、あるいは何かつい惹きつけられるものが残っていて欲しい。だからこそ、タチアーナも彼に惚れ、冷たい仕打ちをされても、憎んだり軽蔑したりできないのです。黒田さんは、歌といい、演技といい、そのへんの表現が、実に絶妙でした。
 前半の大人っぽい、シニカルな感じと、最後にタチアーナに哀願する場面の対比もうまくて、タチアーナが彼への思いを断ち切ることは本当に苦しいだろうなと思える説得力がありました。
 津山さんは、少し愁いを含んだ美しい声が、この役にぴったり。手紙のアリアは見事でしたし、後半の成熟した美しい女への変身ぶりには目を見張りましたし、揺れ動く思いに心を揺さぶられました。
 そして、大感動だったのがグレーミン公爵の佐藤さん
 二期会にとって、ロシア語オペラの原語上演というのはたぶん初めてなのでしょう。やはりロシア語の発音というのは相当難しいようです。私はロシア語は全く分からないのですが、何度も聞いたことのある音楽だけに、響きが微妙に違うような感じがした部分がなくもなかったのですが、そういういささか無国籍な空気を一挙にロシア色に染め上げたのが、グレーミン公のアリアでした。2階席で歌っているのに、地の底から響いてくるような深い低音は、もう圧巻。劇場内の空気も聞いている私の心も震えました。何でも、ロシアに留学されて、本場ロシアでもこの役を歌った経験があるとのこと。それを聞いて、なるほど、と思いましたが、日本人でもこういう低音を出すバスがいるんですよね〜(次は、彼のザラストロを聞きたい!)
 あと、特筆すべきは合唱。合唱が醸し出す響きは、いかにもロシア風です。しかも1人ひとりの演技がしっかりついていて、「その他大勢」は誰もいません。舞台のどこを見てもなにか発見があるという面白さを味わえました。カーテンコールの時に、コンヴィチュニーさんは合唱団の中に入り、ニコニコしてましたけど、彼も満足のできばえだったのでしょう。
 それ以外のキャストも、実に芸達者というか、細かいところまでしっかり表現していて、たとえば乳母(村松桂子)が冒頭にラリーナ家の庭で未亡人(タチアーナとオルガの母)と2人でウォッカを飲んでいる場面でポケットからひょいと杯を出すところや、小走りにあたふたするところなど、ユーモラスな動きで、シリアスなドラマにいいアクセントをつけていました。
 
 Bキャストも見てきました。
 1幕の重唱がとっても美しいのが印象的。
 ソプラノの大隅智佳子さんは、津山さんとはまったく別のタイプの、強くてドラマチックなタチアーナで、これまた素晴らしい熱演でした。
 あとテノールの大槻孝志さんは、詩人らしい繊細な、屈折したレンスキーの心を切々と歌っていて、胸を打たれました。決闘の前に、生をいとおしむように未練たっぷりに、一幕からずっと舞台にあるハープや白樺の木に触れる仕草など、演技もとても丁寧でした。
 バスの斉木健詞さんも大健闘。
  
 これからも、このオペラは何度も見る機会があるでしょうけれど、今回の演出は生涯忘れられないでしょう。特に、あのポロネーズを聞くたびに、オネーギンがレンスキーの死体を抱えて踊る光景が蘇るに違いありません。
 コンヴィチュニー演出に出てくるオネーギンは、ちょっと世間からは浮いているけれど、特異な人ではありません。オネーギンだけでなく、タチアーナやレンスキー、オルガも、1幕に出てくる彼らはごく普通の若者です。まるで登場人物を借りて、この物語が、遠い国の昔の空想ではなく、今の、私たちの隣にいる人(あるいは私たち自身かも)の人生を描いているかのようです。記憶の箱をふっと空けて、日頃は奥底にしまい込んだ、若い日の、少し苦い、少し懐かしい思い出が蘇る。そんな気持ちにもなりました。だからこそ、オペラの物語の世界に入り込み、登場人物に心を通わせ、深い感動を味わえたのかもしれません。それを可能にするのが、作品の持つ力であり、この力を引き出すのが、演出の業と歌い手たちの表現なのでしょう。
 こういう公演こそ、NHKに撮っておいて欲しかったと、それだけが残念でたまりません。コンヴィチュニーの演出では特に、やはり劇場の中にいてこそ味わえる感動が大きいのですが、この日の公演に来られなかった方も多いわけですし、映像で残しておけば、実際の公演を観た人も、何度も感動を反芻できるでしょうに。
 舞台装置や衣装がスロヴァキア国立ブラチスラヴァ歌劇場所有ということもあり、権利関係の調整は難しかったかもしれません。でも……それをやってこそ、皆様の、私たちのNHK。
 頼みますよ〜

(写真は、すべて写真家の竹原伸治さんの撮影です)
1 タチアーナのためのパーティ。盆踊りみたい?!
2 愛を訴えるタチアーナをオネーギンは冷くあしらう
3 本当は、決闘などしたくない二人。しかし…
4 レンスキーの死体を抱えて踊るオネーギン
5 公爵と結婚したタチアーナ(2階バルコニー席)
6 愛を訴えるオネーギンを、泣きながら拒むタチアーナ(写真2と立場が逆転)

 

 

 

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