イタリア&ロシア 2つのテノールに酔う

2009年06月22日

 とことん楽しく、ハッピーエンドのロッシーニ《チェネレントラ》。方やとことん暗く、不幸で救いのないチャイコフスキー《スペードの女王》。ストーリーも音楽も対極的な2つのオペラを、相次いで見た。主演のテノールも、一方は高音を軽やかに歌い上げて聞く人を興奮の渦に巻き込むアントニーノ・シラグーザ。もう一方は、これがテノールなのかというくらいの重量とパワーで聞く者を圧倒するウラディミール・ガルージン。同じテノールという音域でありながら、両極端とも言えるほどタイプが違う2人の歌い手の魅力を、堪能した。
 
 《チェネレントラ》@新国立劇場のお目当ては、何と言っても王子ドン・ラミーロ役のシラグーザ! 昨年はスポレート歌劇場の引っ越し公演で同じ役を演じて、本当に素晴らしかった。前年の藤原歌劇団《泥棒かささぎ》もよかった、このところの彼は外れがない。それどころか、年々パワーアップしているかのよう。そんな彼が、どんな王子様ぶりを見せて聞かせてくれるかしらん……そんな期待でワクワクしながら劇場へ。
 この役は、もうすっかり手の中に入っているという感じで、演技にも余裕があるシラグーザ。登場してまもなくのシーンから、演技で笑わせてくれた。
 歌の方は、期待にしっかり応えて、軽々と明るく美しいハイCを響かせた。ロッシーニのあのクレシェンドのせいもあって、聞いていると体温と脈拍がどんどん高くなり、体中が熱くなっていく。聞かせどころのアリアでは、鳴り止まぬ拍手に応えて、今回も一部をアンコールしてくれた。しかも、さらに音を上げ、「これでどうだ〜」と言わんばかりに思い切り引っ張るので、聞いている方は大興奮。そこまでやっても、全然疲れも見せず、次の場面でも思い切り、恋人をいじめる継父や姉たちをしかり飛ばしていた。全部歌い終わっても、もう一度最初から歌えそうなほど、軽々と歌っているのがすごい!
 それに加えて、早いパッセージの軽やかさといい、弱音の柔らかさといい、ロッシーニの魅力をこれだけ味わわせてくれるテノールって、そうはいないのではないかしら。フローレスがいる、という人がいると思うけれど――そして確かに彼の歌も素晴らしいけれど――演技やステージマナーも含めて、見ている人を幸せな気持ちにさせるパフォーマンスや舞台といったら、やっぱりシラグーザだ!!
 チェネレントラ役は、ヴェッセリーナ・カサロヴァ。数ヶ月前の《カルメン》が惨憺たる出来だったので、実はとっても心配していた。
 最初に登場する場面で歌う民謡っぽい歌は、いかにもカサロヴァらしい太い声で、カンツォーネというより、不幸な境遇への怨みが籠もった”怨歌”。シンデレラにしては、ちょっとドスがききすぎかも、と思ったが、すぐに慣れたのと、王子との出会いのシーンから、声のトーンがちょっと甘くなったので、後は気にならなかった。《カルメン》の時には音域が変わる時のギアチェンジがあからさまだったのに比べて、今回のようにアジリタをきかせていると全く気にならない。それどころか、このアジリタが実にうまいんだな〜。ここぞと言う時に、やたらと体を動かすなど気になる部分はあるのだけれど、それを補ってあまりあるパフォーマンスだった。太い声だからといって、《カルメン》が合うとは限らない。彼女には、《カルメン》への誘惑は断ち切って、ロッシーニの路線でがんばってもらいたい。たとえば、《タンクレディ》なんて勇者の役なんだし、合いそうな気がするけど、どうかしらん。
 王子の従者ダンディーニのロベルト・デ・カンディアは、本当にこの役がぴったり。歌がうまいだけでなく、動きや演技が最高!王子がアリアとアンコールで会場を大いに沸かせ、家来たちを引き連れて引っ込んだ後に、ぽつんと1人で舞台に取り残される所など、ただ立っているだけ(に見える)なのに、なんとも言えないおかしみを醸し出して、会場の笑いを誘っていた。
 継父ドン・マニフィコのブルーノ・デ・シモーネもユーモアたっぷりで笑わせてくれたし、いじわるな姉クロリンダ(幸田浩子)とディーズベ(清水華澄)の日本人2人も素晴らしかった。特に幸田さんの美しい声にはうっとり。それでいながら、後半の殴る蹴るの大立ち回りで舞台を盛り上げる大活躍で、これまた大笑い。
 いつもながら新国立の合唱は素晴らしく、これも二重丸。
 これだけの人が出ているオペラでは、たいてい1人か2人は、「この人はちょっと…」という人がいるけれど、今回はそういう風に思った人が誰もなくて、すべてが適材適所で、なおかつ好調だったよう。
 演出・衣装・美術は、ジャン・ピエール・ポネル。まるで、絵本をめくるように幕が開き、セットは墨で描かれた絵のような雰囲気。シンプルだけれど、おしゃれで優しい感じ。だいぶ前にバイエルン州立歌劇場のために制作されたものを、ポネルの弟子が再演出したとのことだが、そういう古さを全然感じさせない。いいものは時代を超えて素晴らしいという見本のような演出。
 嵐の場面で傘がおちょこになったり、最後にチェネレントラがいじわるな継父たちを許す場面で男性合唱がポケットから一斉にハンカチを出して大袈裟に泣いてみたり、あちこちに楽しい仕掛けもたくさんありながら、すべて動きはちゃんと音楽を視覚化するようになっている。言うことなし。
 オーケストラもわくわくゾクゾクするようなクレシェンドを楽しませてくれた。カサロヴァご指名と言われる指揮者のデイヴィッド・サイラスは、最初に聞いた時は(実は、シラグーザ聞きたさに、2回見に行ってしまったのだ)ちょっと重く感じる部分もあって、序曲などはロッシーニというよりベートーヴェンという感じがしなくもなかったけれど、最終日はほとんど気にならなかった。
 まさに見てよし、聞いて楽しいすばらしい公演で、大満足。まだ今年は半年以上残っているが、2009年に見たオペラのベスト3に間違いなく入りそうだ。
 
 一方の《スペードの女王》はボリショイ歌劇場の引っ越し公演。このところ、ロシアのオペラというと、ゲルギエフ率いるマリインスキーがおなじみだったが、このプレトニョフ指揮のボリショイこそ正調ロシアン・オペラと言うべきかもしれない。迫力たっぷりのフォルテと憂いを含んだ美しい弱音は、まさに「これぞロシアじゃ〜!」と主張しているかのよう。
 地鳴りがするような低音を、チューバ一本で広いNHKホールいっぱいに響かせるなんて、さすがロシア人としか言いようがない。そういうロシアン・サウンドに浴びせ倒されるのは、何とも言えぬ快感だ。歌い手も、オケに負けず劣らずの声量。劇中劇に出てくる3人やパーティの案内役の男性でさえ、すごく声量が豊かなのだ。どんなに美しくても細めの声はロシアでは相手にされない、と聞いたことがある。声量があって当たり前で、それに+αするした表現力で役柄が決まるという厳しい世界なのだろう。いやはやスゴイ。
 そういう世界の中でも、やはりガルージンの迫力は突出している。サイトウキネンで、同じ演目が上演された時も、主役ゲルマンは彼で、彼の歌と演技に圧倒された。今回も期待にたがわぬゲルマンだった。彼の真骨頂は、単に声量が大きいことではなく、一途な愛で動いていたゲルマンの心が、欲に絡め取られ、野心に支配されて、挙げ句の果てに狂気の世界に突入していく、そんな人の心の暗部、弱さを全身でこれでもかこれでもかと表していく表現にある。最後の場面、オペラグラスで見たガルージンがニマ〜ッと笑っている顔は、なんだか悪魔の世界に引きずり込まれるような、不気味さと凄みだった。こういう不気味さや悪業も、人間の一面なのだと、見せつけるかのようだ。
 しかも、伯爵夫人がエレーナ・オブラスツォーワ。ボローニャ歌劇場の引っ越し公演の《連隊の娘》では、公爵夫人をコミカルに演じて、たっぷり聞かせてさんざん笑わせてくれた彼女が、こんな怖いオペラの、その中でもおどろおどろしい存在である伯爵夫人をどう演じるのかが、楽しみだった。
 オブラスツォーワは今、70歳。この役を始めて演じたのは25歳の時だそうで、そんな若さでこんな老け役をどうやってやったのだろう。以来、経験を重ねて、すでに1000回以上この役を演じている、とのこと。まるで『放浪記』の森光子さんみたいだ。経験を重ねていくなかで、実年齢もこの役にぴったりの年齢になった、ということらしい。
 杖でドンドンと床を突くだけで、何も声を発しなくても、不気味さを醸し出す。まして歌った時の存在感ときたら……。これは経験が生み出すのか、彼女の表現力ゆえか。おそらく両方だろう。70歳という年齢で、NHKホールの隅々まで響かせる声を演技をしながら出してしまうというのは、どういう鍛錬をしているのだろう。
 このガルージンのゲルマンとオブラスツォーワの伯爵夫人が対決する場面の迫力は、業と業のぶつかり合いで、本当にすごい、怖い、恐ろしい。なのに惹きつけられてしまうから不思議だ。
 リーザのエレーナ・ポポフスカヤは、声量はありつつ清楚で品があって、かつ憂いを含んだ美声。それにしても、リーザはなぜ条件のいい、かつハンサムで誠実なエレツキー公爵を振って、ゲルマンに走ったんだろう。イゾルデのように、一服盛られたわけでもないのに…。それもまた、人間の心の不思議さの一端と言えるのだろう。このオペラは、そうした理屈では説明できない人間の情念みたいなものが凝縮している。
 そんな中で、ほとんど唯一、うっとりと聞いていられるアリアを歌う素敵な役がエレツキー公。この役は、ホロ様ことホロストフスキーの歌を一度聞いてしまうと、他の誰がやるのを聞いても、どうもイマイチに聞こえてしまう。今回の人も、決して悪くはなく、そこそこハンサムではあるが、ホロ様の朗々として、かつ温かみと品のある声に比べると、どうしても聞き劣りがしてしまう。実に気の毒だ…。
 というわけで、オケも歌い手陣もほぼ満足だったのだが、問題は演出。舞台の中央に橋のような構造物がどーんと置いてあり、主な出演者が歌うのは、その上、つまり2階部分が多い。ゲルマンと伯爵夫人の対決もそこで。しかも、登場人物はみな黒い服を着ている。
 オペラが始まった直後は、生身の人間でまるで影絵をしているような面白さがあったが、ずっと黒ずくめで大切な場面の多くが橋の上というのは、いかがなものか。ゲルマンと伯爵夫人の対決場面のような、人間の業と業がぶつかり合うクライマックスは、この2人がもっと前面に出て、観客の心をわしづかみにする迫力ある舞台を作って欲しかった。2階で指揮者を見ながら歌おうと思えば下をむかなければならず、喉を開いて声を通そうと思えば指揮者は見えないはずで、歌い手は相当苦労したのではないか。その苦労が報われればいいが、逆効果。それどころか、オケと歌がずれている部分があったのも、こういう妙な演出のせいだろう。
 この構造物は、リーザが身を投げる橋をイメージしたものかと思ったが、肝心の身投げシーンはどこにいったのだろうか。人知れず(観客に分からないように)飛び込んだのだろうか。でも、こういう印象的な場面がまったく目にとまらないようではどうしようもない。
 オケも歌い手も素晴らしかっただけに、この演出が、ひたすら残念だった。
 それから、カーテン・コールの時に、1幕で出た児童合唱団がいつまでも最前列にいたのは、つくづく興ざめだった。私はガルージンやオブラスツォーワに拍手を送りたいのに、そうした主役たちが子どもたちの後ろに置かれている状態が最後まで続いたのは、まったく納得ができない。ちょい役の子どもたちは、たとえ勧められて一瞬前に出たとしても、すぐに退くべきで、いつまでも出しゃばってもらいたくない。いったいどういうしつけをしているのだろうと言いたくなる。こんな後味の悪いカーテンコールは珍しい。ガルージンなど、人混みに紛れて、どこにいるのか探さねばならないほどだった。オペラグラスでのぞくと、その表情は、上演中のあの恐ろしさはまったくなく、穏やかな笑顔。きっととてもいい人なんだろう。
 というわけで、不満もないわけではないが、聴き応えたっぷりの《スペードの女王》だった。
 
 それにしても、イタリアのシラグーザとロシアのガルージン。同じテノール歌手と呼ばれるけれど、声といい、音楽といい、なんと違うことだろう。音楽には、それが生まれた風土が反映している。ただ共通しているのは、どちらも常人では想像もつかない素晴らしい声とテクニックと音楽性の持ち主だ、ということだ。
 そんな優れた2人のパフォーマンスを相次いで聞くことができたのは、本当に幸せなことだった。

Copyright 2006 © Shoko Egawa All Right Reserved.
CMパンチ:ホームページ制作会社:港区赤坂