オペラを愛しぬいて〜若杉弘氏のご逝去を悼む

2009年07月24日

 指揮者で、新国立劇場のオペラ芸術監督の若杉弘さんが亡くなった。
 本当にショックだ。
 その功績や偉大さは、新聞などの大メディアが伝えているが、何より、オペラが大好きで、私たちファンにオペラの魅力を伝えること、オペラを通して人々を楽しませることに、喜びを感じている方だったと思う。
 
 若杉さんは、本当に多くのオペラ作品を日本初演をしている。びわ湖ホールの芸術監督をされていた時期には、日本では上演されていなかったヴェルディの作品を毎年一つずつ、すべて日本人の歌い手で上演された。このシリーズによって、偉大な作曲家の知らなかった作品の魅力を伝えていただいたし、リヒリャウト・シュトラウスの演目も、若杉さんの指揮でそのすばらしさを知った。
 ご自分が指揮をするだけでなく、いろんなオペラ公演の客席でお見かけした。そういう機会にも、人々が何を求めているのかを敏感に感じ、人々に何を提供すべきかを常に考えていらしたのだと思う。
 新国立劇場の芸術監督に就任されることが決まってすぐに、オペラの客席でお見かけした若杉さんにご挨拶したら、「《アイーダ》は復活させようと思っているんですよ」とおっしゃった。それまでの新国立劇場の公演への不満を、私が以前若杉さんの前で口にしたのを覚えていてくださって、教えて下さったのだろう。
 長らく再演を求める声がありながら封印されていたトーキョー《リング》のリバイバルも決まった。そんな風に、聴衆の声に耳を傾けながら、同時に、聴衆に何を届けるべきかという考えをはっきりお持ちだった。若杉さんが芸術監督になってからの新国立劇場の演目は、どれもこれも魅力的で、だからこそ、いつ行っても席はほとんど満杯。それ以前は、2階席以上はガラガラで、招待の高校生などを入れても、まだ空席が目立つというようなこともしばしばあったのとは大違いだ。
 体調不良が伝えられてからも、指揮への情熱は衰えなかった。私が聞いた最後の演奏は、昨年6月の《ペレアスとメリザンド》。演奏は素晴らしく、カーテンコールの時に、本当に歩くのもやっとという感じで、舞台に現れた。これだけ大変な状態で、あれだけ美しい音楽を作られたのに驚愕すると同時に、この音楽への思いがあれば、きっと体調も回復されるだろうと、やや楽観する気持ちにもなったのだが…。
 ご冥福をお祈りするとともに、これまでオペラの魅力をたくさん味わわせてくださったことに、心からありがとうございますと申し上げたい。
 
 新国立劇場の芸術監督に就任が決まった後、2007年1月30日に行った若杉さんのインタビューを再録する。『音楽の友』では、ページの都合上、ほんの一部しか紹介できなかったけれど、ここでは若杉さんの口調などもそのまま記すこととした。


――ラインナップが発表されて、いよいよ若杉体制の始まりですね。
「 はい、そうなんですよねえ」
――このラインナップに込められた若杉さんのコンセプトは?
「最初の任期が3年なものですから、3年に分けてバランス良く作ってあるんですよ。でも、国の予算が年度予算なもので、年度ごとでないと発表しちゃいけないという決まりがあって、全部はまだ発表できないんです。3年分を並べてみてくださると、だいたい僕のコンセプトが分かるはずなんですけどね。1年分だけが出ると、なんかやたらポピュラーと前衛とが一緒になっているみたいに見えますけれども。
 この劇場の方針で、1年間、いつも1つのシーズンにオペラを10種目やるということが、決まっています。オープンした10年前は、全部が新制作だったわけですけども、もうだんだんだんだん財産がたまってきているので、5作品は新制作で、5作品はこれまで評判の良かったものの再演ということになっているものですから、わりとみなさんのお客様に喜んでいただいている、《アイーダ》だとか、《ボエーム》だとか、《椿姫》だとかを入れているわけなんです。
 ただしですね、あの10年経ったと言っても、なんていうんでしょう、落ちこぼれちゃった作品があるわけですね。例えば、歌舞伎ですと、歌舞伎十八番っていうじゃないですか。それと同じように、オペラ十八番っていうのが、やっぱりあると思うんですね。人によって、十八番の選び方は違うだろうけれども。、劇場をつくる時には、基礎工事として、まずはオペラ十八番から始めるべきなのに、そういう演目が随分抜け落ちている。《魔弾の射手》だって、この11年目になって初めてですから。だから、そういうものを埋めていかなきゃならないのが、僕の仕事だと思うんですね。
 それで10作品の中で、その5作品新しく作るわけですけども、やっぱり日本の国家の劇場ですから、日本人の作曲家による日本のオペラはもう必ず一つは入れたい。それと同時に、20世紀の名作でお客様に触れていただきたいものは、必ず一本入れようというのが、僕のコンセプトの基礎なんですね。
 もちろん、イタリアオペラばっかりに偏ってもいけないし、ドイツオペラばっかりに偏ってもいけない。フランスオペラに偏ってもいけないと思うんで、こういうふうに並べたんです。
 あの、ひとつ問題はですね、この劇場は、ヨーロッパ式で秋から夏休みまでっていうのを1シーズンとしているんですけれども、予算は日本の年度会計ですから、3月31日で終わっちゃって、4月1日から新しいあの会計年度になるわけです。またがっちゃうんですよね。それで、前半の半年分で、沢山お金がかかるものを並べると、パンクしちゃってダメだし、4月1日(いっぴ)からの方の予算で、あのお金のかかるものをやっても、次のシーズンが出来なくなります。お金のかかるものばっかりが3本続いたりすると、予算オーバーになっちゃうんですよね。そこらへん、難しいですよ」

――そういういろんな予算の制約とかあると思うんですけれども、芸術監督っていうのはですね、どの程度やりたいことを実現できる権限がありますか?
「あのね、例えば琵琶湖ホールで仕事してる時も、あちらでも言ってたんですけれども、僕に絶対予算は見せないでくれ、と。『数字を見せないで下さい。数字を見ちゃうとあの発想が萎んじゃうから』って。なるべく僕に、自由に発想させていてただいて、それをどういうふうに切り詰めるかっていうのは、劇場側の決断だから。僕に初めから、『これだけの予算しかありませんから』なんて言われると、なんかあの発想が萎んじゃうと思って。それはこちらでもやっていただいてるんです。
 幸いなことに、僕がこうした方針で、劇場を――そのつまり、なんて言うんでしょう――正しいレールの上を汽車が走るように走らせたいというのを分かっていますから、劇場側が。だもんで、僕の提案する演目を、みんな呑んで下さる。それからもちろん、配役、指揮者の選択、演出家の選択。みんな僕が発言して、この方が良いでしょうということを決めて行く訳です」

――今のところ、ほとんどその通りに決まっているという感じ?
「そうですね。もちろん指揮者や歌い手なんかでも、せっかくお願いしたくても、その日程ではご都合がつかない方もありますし、演出家でも、前に演出したものは新しくやり直したくないという方もいらっしゃるし。なので、全てが僕の理想どおりとはいきませんけれど。でも、イメージははっきり僕にありますから、じゃあ似たタイプの指揮者とか、似たタイプの歌い手とかいうことは、理想的に出来ています」

――その最初が「タンホイザー」ですよね。これで若杉丸の発進ですよね。なのに、なぜ若杉さんがお振りにならないのでしょうか、って思うのですが。
「 ああそうですか」
――なんか随分、謙虚にされすぎているのではないかと。
「そんなことないんですよ。あのね、あのさきほど申し上げたように、日本のオペラは必ず1本はしたい。それから20世紀の作品はやるべきだ。ということで、それを僕が担当することになる。でも《黒船》でシーズンを明けるわけにもいかない。《軍人たち》でシーズンを明けるわけにもいかない。「タンホイザー」もオペラ十八番の1つですから、やっぱりそうしたものでオープンしたいなということなんです。それに、いくら芸術監督といっても、1年間に、3演目、4演目、僕が指揮するわけにもいかないですから」
――そういうもんなんですか?
「いや、規則はないですけれども、やっぱりいろんな指揮者、日本の指揮者も沢山登場して欲しいので。そうすると、僕が4演目指揮して、おふた方、日本の指揮者をお願いするとなると、そこまで日本色になっていいいのかな、と。なのでまあ年間に、僕が2本、2演目やるつもりでおります」
――それは、だいたいその日本の作品とそれから新しいものをご自身で、と?
「そういうつもりです。僕が、すごくそれを望んでいるものですから。日本人の作品をやりたいとか。20世紀の名作をやりたいとか。なので、自分で責任を取ろうと」

―― じゃあ、そういう作品と、いわゆるオペラ十八番っていう中から未だ上演されていないものに、今までやった中で人気のあるものを入れて組み立てたい、ということですね
「そうです。そうなんです。ですから、これはあんまり大きな声では言いたくないんですけれども、10年間の演目に相当歪みがあると思うんです、僕は。それこそ、《魔弾の射手》をやっていないとかっていうこともありますし、例えば、ワーグナーだったら、《トリスタンとイゾルデ》」が、ワーグナーの名刺みたいな作品なのに、全然手をつけていなくて、それで、《ニーベルングの指環》」4部作を上演するとか。それから、例えば、やっぱり20世紀の名作の1つですけれども、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》に手が着いていないのに、どうして《ルル》をやるのかとか。そういうことって、外から見てても疑問でしたから、そういうところを矯正していきたい。だから《ヴォツェック》は是非、3年間の中に、僕は頭の中では考えています」

――じゃあトリスタンも?
「ええ、そうですね。で、ちょうど10年前のオープニングは、《ローエングリン》で開けたものですから、じゃあ《タンホイザー》をまずやって、そして《トリスタン》ではないでしょうかという、問題提起ですよ。こういうものをやってなかったというのは、おかしいじゃないですか、というつもりなんですけれども。
――そうやって、いわゆる十八番的なものを、日本のオペラファンたちは、新国で観ることができる、と。
「そうなんですね。やっぱりお客様のことを大事に考えたいと思っているので。《カルメン》があって、《椿姫》があって、《ボーエム》があってっていうと、なんだポピュラー大会じゃないかってな気はしますけれども、《カルメン》は、この劇場で2回、新制作をしたんですよ。でも、1回目あんまり出来が良くかったんで別の演出家で別のプロダクションを作って、それもあんまり上手く行ってなかったもんですから、今お客様に出せない状態なんですよね。だもんで、僕と同じ年の9月から着任なさる演劇の芸術監督の鵜山仁さんに演出をお願いして新しく作り直すわけなんです」
――これぞ「新国のカルメン」っていうものを作って行くんですね。
「そうです。そうです」

――今は1年目の上演演目を、発表されましたけれども、かなり先の予定も、今からこう準備をされていると思うんですけれども。
「 そうなんですよね。今から、3年目の準備をしてね。外国の指揮者なんか、今交渉しなきゃ間に合いませんから」
―― じゃあ、若杉先生の手帳って、何年も先の予定も書き込めるものを使っていらっしゃるんですか?
「 そうですね。僕は今使っているのは、ちょうど2010年までの手帳なんです。10年分が1つに入っているカレンダーなんです。やっぱりそういうので、ポンポンポンポン、スケジュール入れて行かないと、間に合いませんので」
――2010年の予定も、随分、埋まって来ていますか?
「そうですね。だって、2010年がまだ僕の3年目ですから、やっぱりもう、今からこの月には何をやってというのは、決まって来ますから」
――そうですか。それは、まだ発表はできない?(笑)
「できないですね。 難しいのはですね、海外の劇場と違うのは、日本は、大きく言って100年間。劇場っていうものが無しでやってきた訳ですよね。藤原歌劇団の歴史が75年ぐらいだし、二期会の歴史が50年ちょっと。その間、劇場体験っていうのが、無いわけですよ。昔は、旧帝国劇場とか、日比谷公会堂とか、サンケイホールとか、ああいうところでやってましたから。要するに、拝借できる期間が決まっている劇場。施設もそんなに完備してないところでやって来ました。で、(新国立劇場ができて)初めて劇場ってものを得られたわけですよね。だもんで、みんな戸惑っているんですよ。
 海外の歌劇場っていうのは、一つの街に1つです。今まで日本のオペラを支えて来た、藤原歌劇団にしても、二期会にしても、その他の団体にしても、全部丸がかりでここで専属契約しているわけじゃないですからね。そうすると、自分たちの主催公演もなさるわけですよ。そうすると、こちらで《ボエーム》をしようって言っても、いや二期会も《ボエーム》やりますからって、鉢合わせしてしまう。なおかつ、この劇場はある期間、貸し小屋になるわけですよね。そうすると、藤原歌劇団、お使いになって結構ですよ。すると、藤原歌劇団が《トスカ》をするって言って、こちらも《トスカ》を計画している。すると、同じ劇場で、2枚違うポスターが、藤原歌劇団のポスターと、新国立劇場の《トスカ》と、出ることになると、お客様は戸惑いますよ。ですから、そういう演目の重なりを避けなきゃならない。
 それから、もう今年のシーズンでも起こることなんですけれども、海外からの引越し公演の演目が分からないうちに、こちらも先の演目も決めるわけですよね。そうすると、鉢合わせになっちゃう。お聞きおよびだと思いますけれども、「ばら戦争」っていうことで、《ばらの騎士》が4つも――普段なかなか出来ないオペラなのに――重なっちゃうということが、起こるんですよね」
――芸術監督としては情報収集をされてますよね?
「でも、みなさんなかなか情報をお出しにならないんですよね。発表の時にびっくりさせようなんて思っていらっしゃいますから。だからといって、国が《ボエーム》をするんだから、あなたたちはやっちゃいけませんとは言えないし。そのへんがとっても難しいですね」
――でも若杉先生は、すごく人脈が広くていらっしゃいますから、そういう情報がちょちょっと、入って来るのではないでしょうか?
「でもやっぱり噂じゃだめで、あの確証がないとこういう仕事ってできませんから。難しいですね、なかなか。だから、《タンホイザー》だって、3つ重なるわけですよね。小澤征爾さんの東京のオペラの森が《タンホイザー》、それからここが《タンホイザー》、それからドレスデンの歌劇場が《タンホイザー》。重なっちゃうんですよ、そういうふうに」
――でも、今回は時期がちょっとずつずれていますから
「そうなんですけどね」
――《マイスタージンガー》の時は…
「 あの時はすごかった。同じ日曜日の同じ日の午後2時に両方で開演しまして。あるご夫婦が、各々1枚ずつ切符をお買いになって、どうせ3幕の前には50分くらい休憩があるから、渋谷の駅で取り替えっこしましょうって。これがね、上野の東京文化会館とだったら、ちょっと間に合わないんですけれども、それが、NHKホールだったもんですから、渋谷の改札口で取り替えっこして、で、ご夫婦で逆を観るってなさった方ありますよ」
―― へえ…賢い
「賢いですよほんとに」
――本当に、オペラってチケット代も安くないですから。
「そうなんですよ」
――どうやって、目一杯楽しむかって、知恵を絞りたくなりますよね。
「そうなんです。素晴らしい」

――私、若杉先生を何度もオペラの会場で拝見しましたけれども、自分のお仕事が重ならない時は、よくご覧になっていらっしゃる?
「やっぱり好きなんですよ、僕。だから、ビジネスでオペラやっているっていう気は、全然ありませんから。自分が好きで好きで…。劇場が好きだし。僕、高校2年生の時から、だから17歳の時から、藤原歌劇団でピアノ弾いてましたから」
――えー、そうなんですか。
「はい。ですから、オペラの世界に浸り込んでいって育ちましたから。だもんで、あのやっぱり、いろんな方がなさるオペラを是非観たいと思って。僕、残念ながら、昨日、一昨日とどうしても《ダフネ》の通し稽古があったもんですから、《ルイーズ》が観られなかったんですけどね。なるべく、ああしたものが出る時には、是非観たいなと思っていて」
――最近のいい歌手をスカウトするためにいらしてるのかなと思ったんですけれども。
「もちろん、今までご一緒したことのない歌手で、あっこの方こんなに素晴らしいんだったら、是非あのご一緒したいなってことはありますよ。学校で教えていた時分は、巣立って行く人たちの個性と能力とを知っていますから、そういう人たちに、やってもらう場所はないかって考えたりもしました。以前は、東京二期会の研究生の先生をしていたもんですから――研究生に受かるっていうのは相当力のある方ですから――そういう人たちと一緒に練習をしている間に、『あっ、この人は、こういう長所があるけれどもこういう弱点もある』っていうのを、みんな知ってました。でも、学校とか、養成所とかに、行かない年齢になっちゃうと、やっぱり劇場での生を聴きたいっていうのがありますね」

――それにしても、17歳の時から、オペラのピアノを弾いていらっしゃったというのはずいぶん早いですが、一番最初のオペラとの出会いっていうのは、何歳くらいの時だったんですか?
「小学校の4年生ですね。あの今度、新国立劇場でこの3月に指揮をさせて頂く《蝶々夫人》が最初のオペラでした」
――どちらでご覧になったんですか?
「ちょうど、戦争が終わったところですから。つまり昭和20年に戦争が終わって、その秋頃なんですけれども、当時日本は進駐軍が日本を占領していて、進駐軍向けのオペラ公演っていうのがあったんですよ。母が、通訳やなんかをして働いていたもんですから、切符を回してもらって、手を引いて連れて行ってくれたんです」
――行ってみて、いかがでした?
「それでもう虜になりましたけれども。それ1回でハマっちゃいました」

―― その時はどんな感じの公演だったですかその?日本人が出ていらした?
「そうです。そうです。要するに、普段の一般の公演よりも、お金がかかっていたようですね、舞台美術やなんかも。その他と比べることできないです。初めて観たんだから。でも、僕はオペラだけじゃなくて、親が、演劇とか、歌舞伎とか、それから新橋演舞場の新派のお芝居とか、いうのにも連れていってくれていましたから」
―― 小学生の時からですか?
「三越劇場での《ウィンザーでの陽気な女房たち》とか、そういうのに通ってましたから。オペラだけじゃなくて、僕は演劇が好きなんですよ」
――舞台ものは全部?
「はい。それから、絵が好きです。絵を観るのが。描けないけれども。それから、バレエとか、踊りがやっぱり好きですから。そうするとそういうものが、全部一緒にオペラの中にあるじゃないですか。劇があって、音楽があって、舞踊があって。それで舞台美術があって、衣装があって。だもんですから、あの好きなものばっかり、一カ所で観られるわけですから」
――でも小学生の子が「蝶々夫人」…。原語ですか?
「いえ、日本語」
―― じゃあ、聴いていて、だいたいお分かりになる。
「そうですね。でもね、のちにですね、新橋演舞場の新派の公演で、先代の水谷八重子さんが、蝶々夫人をなさるというので――ベラスコのお芝居です。あのプッチーニの元になったやつ――一生懸命お小遣いをためて、切符を買って――その頃は一人であの切符を買うようになっていましたから――行ったんですね。開演は2時だと思って行ったのに、客席が暗くなって幕が上がると、「もう三年(みとせ)もコマドリが巣を作ったのに、あの方はお帰りにならない。」とかって言うじゃないですか。これは(オペラだと)2幕ですよね。つまりオペラのほうを先に知っているわけだから、僕なんかは。それで、もう遅刻したんだと思って、開演時間に遅れて2幕目に入って来たんだと思ったらば、ベラスコのお芝居はそっからしかないんすよね。原作は」
――えっ、そうなんですか。
「はい。それで、なぜ蝶々さんが3年も待って、ある晴れた日を歌うのか、ってことが分からせるために、オペラにする時に、序幕の結婚式の場面を作ったの。だから、初めは何しろびっくりしましたよ。2幕から始っちゃうんで」
――でもね、愛する人をずっと待ち続けるとかね、そういうのって小学生で気持ちとか、分かりました?
「 分かりますよ。それは分かりますよ」
――それからは、結構ご自分で意識して、この次は何に行きたいとか、そういうことも?
「その頃は、旧帝国劇場なんかでもありましたから、母が前売り券を2枚買って、それで僕を連れて行ってくれるわけですね。もちろん、母も自分も観たかったんだと思うんですけれども。大概、あの帝劇の出し物が変わるごとに、母が切符を買って来てくれたんです。そうしてね。初めて、モーツァルトのオペラが、舞台で上演される。それが《ドン・ジョバンニ》だったんですね。それで、『今月は《ドン・ジョバンニ》だな。モーツァルトのオペラが観られるんだ。聴けるんだ』って思っていたのに、その月は切符を買って来てくれないんですよ。で、『お母さん、モーツァルトのオペラは行かないの?』って言ったら、『ドン・ファンの話は子どもにはいけません』って」
――(爆笑)
「それで連れて行ってくれなかったんです」
――あらら……、残念でしたね。
「ええ。ドンファンが観たいんじゃなくて、モーツァルトが聴きたいのに」
――でも、教育的配慮から…(笑)。
「そうなんです。そんなことありましたね」

――小さい頃、おうちでもレコードを聴くとか、そういうこともされていたんですか?
「そうですね。わりとレコード沢山集めてあったので、親が。良く聴きましたし、なんか家族で夕食の後、客間で、レコード大会しましょ、なんて時が随分ありました」
――そういう時は、主にどういう曲をリクエストされていたんですか?
「大概は僕の兄が決めちゃうんですよ。ブランデンブルグ協奏曲第5番とか、チャイコフスキー作曲第4交響曲とか。でも、みんな僕はそれなりに、楽しみましたからね。そんな好き嫌いはなかったし」
――ピアノは、いつ頃からおやりになってたんですか?
「子どもの頃は、戦争で、僕たちは麹町平河町の祖父祖母の家にしばらくいたんですけれども、そこにはピアノありましたから。それで、僕のおばさんなんかがが、手取り足取り、バイエルなんかを教えてくれました。帰って、すぐ縦型ピアノで、稽古を始めて…」
――子ども時代海外にいらしたことがあるっていうのは、その後ですか?
「ううん。3歳から学齢期7歳までの4年間です」
――どちらですか
「ニューヨークです。父がニューヨークの総領事だったものですから、ですから家族でニューヨークに居たんです」
――それくらい小さい時だったら、向こうの教育を受けるとか、向こうの音楽に触れるとか、そういう機会は無かったですね?
「 あんまり無かったですね。で、あの僕の兄が、やっぱりあの、父の仕事の関係で、サンフランシスコにいた頃に、あちらの教育を受けていたんですよ。向こうの子どもと遊んでとか。それで、僕たちのおじいさんおばあさんのところに帰ってきた時に、兄は英語しか通じない。『このお菓子食べないか?』って言うと、兄は"What's?"って言う訳ですよ。ね。"I don't know."とかって言うんで、もう、おじいちゃんがカンカンに怒って、そして日本の子どもを何ていう教育をしてきたって言って。それで、『弘の時は、日本語しか教えちゃいけない』って言うんで。だもんですから、あんまり英語使ってなかったですけれども」
――それでも、子どもの頃に海外で暮らした影響っていうのはありますか?
「 ありますよ、それは。要するに、英語を耳が聴いていますから。英語の音として耳に残っていますから。言葉だけじゃなく、音楽もそうですし、お味噌汁と納豆とたくわん、っていう生活じゃなく、ミルクにパンにバターという生活でしたから、なんか身体に残っていますね。風土みたいなものが」

――それから、今度日本に帰って戦争っていうことに?
「戦争になるんで、返されたんですよ。それで、ちょうど7歳になったものですから、小学校に行くところだったんで、慶應のメンタルテストを受けて、行ったんです」
――戦争が激しくなる前は、ピアノがあったり海外にいらしたりとか、そういう生活をされていたのが、、戦争で、そういうものが一挙に途切れちゃったと、そういう感じなんですか?
「ええ、確かに、疎開地では家にピアノは無かったし。学校には、足踏みオルガンくらいはありましたけれども。で、確かに、途絶えたんだけども、僕には、その疎開が、とっても良かったんですよ」
―― へぇー。どんなふうに?
「僕は、虚弱児童でしたから。とってもひ弱だったんですけれども、田んぼしかないような田舎の農家に疎開していたので、農家のする仕事、全部、一緒にやりましたから。もともと農家のお子さんたちは、農繁期になると学校が休みになっちゃうじゃないですか。学校が休みになったら、商家の子どもたちと疎開して来た子どもたちは、学校の校庭に朝の5時ぐらいに集められて、それで、いろんな農家の方が、15人借りて行こうとか、10人借りて行こうとかって言って、僕たちが行くんです。それで麦踏みしたり、稲刈りしたり、麦刈りしたり。もう一日中、太陽を浴びて、あの農家の作業を全部やっていましたんで、それが、すごく僕を健康にしました」
―― ああ、そうですか。
「うん。都会でずっと、したらば、もっともっとあの弱かったと思います」
――やっぱり指揮者っていうのは、結構、体力の必要なお仕事ですし
「そうですね」
―― その時にその体力を培った感じですか?
「まあそうだと思いますよ。それがなかったら、僕こんなにその元気じゃないかもしれない。もっともっと、あの青びょうたんかもしれない」
――で、帰っていらしてからまたピアノの勉強を?
「すぐ続けました」

――いつ頃から、音楽の道に進んで行こうっていうふうにお考えになって?
「 それはね。全然考えていなかったんですよ。高校生の時に、藤原歌劇団に行ってたって申し上げたけれども、それは勉強の合間の余暇で行っていたので。将来は、もう父の後を継いで、外交官になるか、銀行に行くかっていうのが、あたり前だと思っていましたから。だもんで、慶應の大学は経済学部に2年まで行って、大学の教養学部の2年というと、ちょうど20歳になるわけですよね。それで、その頃に簿記をつけたりなんかしている間に、これが本当の自分の人生なんだろうか、もしかして、どんなに重役さんになっても、1日に二十何個のハンコを押しても、なんか足に霜焼けが出来たみたいに、『音楽しときゃ良かったって、どうしてあの時決心しなかったんだろう』っていう思いをするんじゃないかっていうことに、思い至ったんですね。ですから僕…あっちょっと吸ってもよろしいですか?」
――はい、もちろん。ごめんなさい。気がつかなくて。
「いえ、大丈夫ですよ。あの要するに、僕の一つの教育に対する意見なんですけども、18歳の時に、志望の学部を決めなきゃいけないっていうのが、無理がありますよ。だから、以前の15とかっていうように元服っていうように、もう既に15歳になったら、それは大人扱いになっているような世の中だったら、また違うかも分からないんですけれど、今の近代的なあの生活をしていると、18で自分の人生をはっきり決めろっていうのは、無理なんですよ。できることならね、学制を変えてですね、僕は5年制の高等学校があっても、いいと思うんですよね。全然オペラの話じゃなくて、ごめんなさい。
 大学で教えてますとね、一つのキャンパスに、50%成人がいて、50%まだ未成人がいるわけですよ。つまり、18、19。つまり選挙権を持っているのは、半分しかいない。だからキャンパスが、不思議なんですね。長いこと先生をしている先生方は忘れちゃっていますけれども、僕なんかやっぱり教え始めると、とっても、不自然なんですよね。
 18歳を成年として、18歳から選挙権も与えるんならいいけれども。そうでないとね、学園祭するじゃないですか。オペラなんかも、学校でやりますよね。そうすると、みんな手伝って、1年生から4年生までが、一緒になって汗をかいて、舞台美術を作ったり、衣裳を縫ったりなんかして、やるわけじゃないですか。で、成功して、終わった終わったっていう時に、半分の人はビールが飲めるけれども、半分の人はビールが飲めないわけですよ。これはね、非常にいびつだと思うんですね。5年制の高等学校だったら、高等学校を出る時が、ハタチですから。そうするともう、世の中は成人として受入れて、就職して、社会に出て行くこといけばいいんです。大学っていうのは、その上に、どうしても特別な科学の研究で顕微鏡を覗いて仕事をしたいとか、哲学を専攻したいっていう人が、何先生がいらっしゃる大学だから、私はあそこの大学を受験してっていう、専門教育の場にすればいいと思うんですけれども」
――じゃあ一般教養の部分は全部高校で終えて、と」
「 高校で。今ね、高校の先生がね、とっても悩んでおられるんです。教えている人たち、みんな大学受験のことばっかり考えてて、今やっている授業に、全然集中しないと。授業中も塾に行くこと考えてる。大学の専攻も考えてる。だから、3年間じゃ教えきれないっていうんですね。やっぱり5年っていう年月があれば、学生のほうも、これで世の中に出て行くんだからっていう覚悟で、勉強するだろうって。なんか中途半端ですよ。3年っていうのは」
――それで、本当に自分のやりたいことは何かっていうことも、その間に考えるってことですね。
「そうです。だから僕は、自分の体験から言って、18歳で自分の人生の進路を決めろっていうのは、ちょっと難しかったんで。20歳になって、『やっぱりどうしても、音楽学校に行きたい』って言って。そしたら、僕の音楽の先生が、東京芸術大学の卒業生の卒業名簿を持って来て、『どこでもいいから開けてごらん。そこの両右ページ左ページに、君が尊敬している音楽家が何人いる?』と。やってみたら、本当に2人か3人くらいしかいないですよね。20か30か名前が載っているのに。だから、音楽学校に行ったからと言って、音楽家になれるとは限らないんだからって、説得をされました。辞めておきなさいって。周りが辞めとけ辞めとけっていう中で、でもどうしても行きたくなったんで、慶應を辞めて、東京芸術大学を受け直したんですよ。1年生に受け直したんですよ」
――親御さんは、反対されませんでした?
「反対しました。それは、反対しました。で、僕の兄なんかは、わりとしっかりしている人なものですから、親が反対しなくても、俺は反対だって言う訳ですよね。何故かっていうと、親のほうが先に死んじゃって、お前が飯が食えなくなって、俺のところにねだりに来るんじゃないか。それが一番心配だ、と。だから、俺は辞めておけって言うって。 
 だから、最後に僕は誓いを立てて、僕はどんなにいわゆる河原乞食になっても、お兄さんの玄関を叩かないって。そしたら、そんなら今度は応援して、お母さん口説いてやるよって、味方になってくれた。
――親御さんをどうやって説得したんですか?
「わりと真剣にちゃんと秩序だって、説明しました。どうやって僕の人生を送りたいかってこと。今、親の希望のように進路を決めてしまうと、親は先に死んじゃうんで、後になって後悔した時には、もう親はいないんだから、親のいる間に自分の進路をはっきり決めちゃおうって思ったんです」
――ご両親もそこまで言うならしょうがないっていう感じですか?
「うん。そうですね」
――それで受験をされたわけですね?
「そうです。でも良かったのはですね、慶應義塾大学の1年、2年をきちんとやって、単位を取ってあったもんですから、東京芸大では、全部一般教養の授業はなしで、実技だけやっていれば良かったから、随分勉強は、音楽の勉強が進みました」

――じゃあ、慶應での2年間は、決してムダではなかったわけですね。
「ムダではなかったと思いますね。それに、音楽専門学校っていうのは、どうしても社会音痴になりますよ。自分の演奏のことばっかりに集中しますから。一般大学にいたっていうことは、わりと、広く社会を見られたから、それは僕の大事な財産でした」
――芸大では、専ら指揮の勉強を?
「あのね、東京芸術大学に初めて指揮科が出来たのは、僕よりも3年上級生ぐらいですよね。初めて指揮科っていうのが出来て入学試験をしてみたらば、ピアノも弾けない、バイオリンも弾けない、歌も歌えない、でも指揮なら自分は音を出さないで、相手が音を出すんだからいいだろうっていう人がいっぱい受けに来たんですよ。つまり音楽的教養がなくて、名曲喫茶でこうやってレコード聴きながら、こうやって(指揮のまねをして)いる人たちが受けにきたんで。
 それだもんで、学校は困っちゃった。その時、ひとり素晴らしい優秀な受験生がいて、その方が三石精ーさんなんです。三石さんだけが受かって、後はみんな落っこって。で、こういうことじゃだめだから、楽器でも、声楽でも、ピアノでも、バイオリンでも、2年間やった人の中から初めて指揮科の試験をしてあげるということになって。だから、当時は1年生は指揮科っていうのは無くて、2年生まで行った人で、どうしても指揮を勉強をしたい人は、指揮科の試験を受け直すってことになったんですね」
――若杉さんはピアノ科だったんですか?
「僕は声楽でした」
――えーっ?声楽だったんですか?! 歌を歌ってらしたんですか?!
「はい」
――あらまあ。先生について習っていらしたんですか?
「そうです。あの僕、畑中良輔先生の弟子です」
――あー、そうだったんですか。じゃあ、舞台に立たれて、歌われたこともあるんですか?
「もう合唱ばっかりやっていました」
――それはいつ頃ですか?その大学入ってから?
「ううん。もう高校生の時分から」
――高校生の頃からピアノだけじゃなくて、舞台も歌っていらしたんですか?
「だから合唱だけですよ。つまり、オペラで役がついたわけじゃないです。男声合唱団みたいなので。そうすると、相当お小遣いいただけるんですよ。労音なんていうのが、とっても盛りだった時分、1つのプログラムで、18回とか22回とかってやるんです。そうすると、ある程度お小遣い頂けますし。日劇の「春の踊り」なんかでもコーラス歌っていましたから」
――へぇ……
「日劇《春の踊り》なんて言うと、ペギー葉山さんのバックコーラスかなんかやっていたわけですよ」
――まあ! そういうことをおやりになったっていうことは、今、振り返ってみると、いかがですか?
「とっても、それこそ財産になっています。つまり、人はどういう時にどういう働き方をしているのか、実地でずっと見てましたから。 オペラも、僕、指揮をするようになったのはずっと後です。いつも舞台裏のちっちゃなオーケストラを指揮したり、舞台裏から聴こえる合唱を指揮したり。そうじゃなかったら、カーテンの緞帳の上がるサインを出す係だったり。なにしろ裏周りばっかりやってましたから、表の指揮台立つなんていうことは、とっても高嶺の花でした。だから、今でも指揮をしていて、上手(かみて)でなにが起こっているか、下手の袖で何が起こっているか、舞台奥に人が足りないんじゃないかっていうのが、ピッと分かります。様子で。それはとっても有り難いです」
――それは、実体験されているからこそ分かるわけですね
「そうなんです。後ろで合図を出す指揮者がいないなとか。例えばですね。モーツァルトの《魔笛》の後ろについていて、いろいろと舞台監督の助手のような仕事をしていますとね、2幕の最後で、パミーナが短刀で自害しようとするところがあるじゃないですか。ね。そうすると、パミーナは上手から登場するのに、短刀は下手の袖に置いてある。「あなたっ、短刀がないのよ、短刀が!」って言われて、しょうがないから、そこらへんにあった材木の切れっ端を、「これ持って出て下さい」とかって渡したり。すると懐に隠して、それっぽく見えるけれども、本当は材木。そういう機転が利くようになっていましたから。そういうことを、僕は体験しているから。なので、歌い手がすっと出て来ないっていう時は、なんかあると。そういうことは、表の指揮をしていても分かるんですよね。それは、知らないでいるよりも、ずっと知っていたほうがいいことです」
―― その時、次どういうふうに対処すればいいかっていことを、考えられるわけですね。
「そうそう。そうなんですよね」
――そうすると、今までおやりになって来たこと全部が、今、活きている感じですね。
「そうですね。やっぱり指揮をするっていうことは、相当ワイドに物を知っていないと。 あれだけの人数の人たちを束ねるわけですから」

――で、その後、ドイツのほうに行かれましたよね?なぜドイツだったんですか?
「その前に、読売日本交響楽団の常任指揮者をしていたんですよ。で、初めての交響楽団のヨーロッパ旅行があったんです。すごい強行軍で、35日間に30回演奏。17都市で、演奏するわけですよね。国も、イタリアもあれば、フランスもあれば、ドイツもある。
 で、その旅行のドイツ側のマネージャーが、音楽会をずっと付いて見ていて、『君、ドイツで仕事する気ない?』って言ってくれたんですよ。だから、『そりゃあ、ありますよ』って言って。とっても良いマネージャーだったんで、『それじゃまず、自分の声をかけられるところに、こういう日本人がいるからって言ってあげるから。 3週間、日本を空けてくればいいように、3カ所のオーケストラの仕事を取っておいてあげるから、それでやってごらんなさい。英語は出来ますね?大丈夫ですよね?』と言って。
 それで、やり始めると、そのマネージャーは『自分が出来ることは、あなたを指揮台まで連れて行くことで、そこから先はあなたの力で、あなたが仕事をしなきゃいけない。次の契約の招待状を口にくわえて、帰っておいで』と。そうすると、その3カ所が核になって、次に来る時には5週間にして、5カ所増やしておくから。10ヶ所にしておくから、と。そのうちに、ドイツのオーケストラが、自分たちの常任指揮者になってくれないかっていう話が起こる。そうするとドイツに住んでいった。ですから、ラッキーだったんですよ。そういう意味では」
――それは、演奏を聴いてそう思われた訳ですよね。
「うん。それはとっても嬉しかったです。じゃあ、認めてもらえたんだなって」
――ドイツに行って、どんなことが良かったなと思われますか?
「そうですね。初めはオーケストラ放送交響楽団に就職したんですけれども、その後は、マネージャーもオペラをやってみないか?って言うんで、それで初めて――一番最初は《魔弾の射手》だったんですけれども――振りました。劇場に行くと、はっきり言われましたよ。『日本にはオペラハウスが無いだろう?どうしてお前はオペラが振れるんだ?』って。『振れるはずがない。これはウェーバーだよ。ドイツの国民オペラだよ。それが、劇場も無い国から来た人が出来るはずわけが無い』。初めに引導を渡されました」
―― 楽団員からですか?
「劇場の演出家とか、楽団員とか、合唱団とか」
――あら〜、それを聞かれてどのように思われました?
「その前に交響楽団の常任になった時にも、最初は『日本人にブラームスが振れる訳がないよな』と言われました。それぐらい日本っていうものが、まだ知られてなかった。東洋っていうだけで、要するに、中国も、韓国も、日本も、あんまり意識なさらないで、何しろアジアの人に西洋の音楽が分かるか?って。
 でも僕は、子どもの頃から、ブラームス聴いてたし、チャイコフスキー聴いてたしするから、自分のやっていることは絶対間違っているとは思わない。それで、やってみて、『お、なかなか良いじゃないか』って言ってくれた時は、嬉しい。嬉しいですよ」
――最初に壁をつくられちゃう感じがありますよね。
「あります。あります」
――それをどうやって崩していくんですか?
「ドイツの新聞の批評なんか、『日本人にブラームスが指揮できるか?』っていうのが、見出しですよ。そして読んで行くと、『それが見事にやったんだ』っていう文章が続く。そういうところで、やってました。僕は小澤征爾さんと年が同じ年なんですよ、1935年生まれで。 小澤さんが突破口を作ってくれて、日本人でも立派にできるということをあちらで示してくれていたんで、『小澤もできるんだから、お前も出来るよね』ってだんだん変わってきて。
 だから、やっぱり小澤さんが切り開いたのはいばらの道で、大変だったと思いますよ。抵抗が大きくて。でもあれだけ、立派な仕事を見せてくれていたから、僕なんかも、受け入れてもらえたっていうことがありますよね。だから小澤さんは本当に大切な先駆者だと思います」
――そして、若杉さんがそこでオペラの指揮をおやりになったから、今度は、今の大野さんとか、上岡さんとかそういう方がいらっしゃるわけですよね。
「そうですよね。みんな僕の仕事ぶりをよく見ていてくれた人たちですから。その世代の人たちっていうのは」
――若杉さんがあちらで活躍されて、日本人もドイツ人の作曲家を振れるんだっていうのが、向こうの人たちにも分かってもらえた。
「分かってもらえて来ましたから。だから、今おっしゃった大野さん、上岡さんたちの世代は少しは楽だったと思います」
――先輩方の果実をいただいているところがありますよね。
「うん。そうなんですよ。ただ客演しているだけじゃなくて、ケルン放送交響楽団の首席指揮者になって、非常に順調に仕事が進みました。それからデュッセルドルフのライン・ドイツ・オペラの音楽総監督をしました。なので、ちゃんと劇場の作法が分かってやっている。劇場のほうは、当時は小澤さんはやっていなかったですから、僕が扉を開いたのかもしれません」

――ドイツのオペラハウスだと、やっぱりドイツものが中心になるわけですか?
「随分イタリアのレパートリーもやりました。例えば、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場なんかは、僕の担当曲が《リゴレット》だったりしますから」
――そうなんですか。 なんとなく、私の頭の中で、若杉先生っていうと、ドイツのイメージがあるんですけれども、ドイツとイタリア、気持ちとしてはどっちがお好きですか?
「 僕はね、よく『若杉さんはドイツ系でしょう』?って言われるんだけど、実は違って。たまたま職場がドイツだったから、ドイツの仕事が多かったんで。本当は、フランスなんです」
――あら?!
「ドビュッシー、メシアン、ブーレーズですよ。僕は」
――あらー。そうなんですか。
「はい。どっちかっていうと、植物質な人間で、動物質じゃないので、あのフランスのエスプリって言うのに一番惹かれますね」
――では、フランス音楽もずいぶん勉強されて…
「はい。東京都交響楽団に毎年来ていただいていたジャン・フルネ先生にずっと習っていました。ニースのアカデミーやなんかで」
――ドイツにいらしたからっていう先入観はいけませんね。
「ドイツの交響楽団で、ドビュッシーの《聖セバスチャンの殉教》をやったり、ラヴェルの《ダフニスとクロエ》なんかやったりしていましたから」
――じゃあ、ここでも是非。
「はい、はい、はい、はい。《アイーダ》のようなグランドオペラに比べて、ぐっとドビュッシーの《ペリアスとメリザンド》はやっぱり地味じゃないですか。だから初日から6回、オペラ劇場で上演するとなると、それだけお客様が、来てくれるかどうか、やっぱりちょっと不安要素があります。
 でも、オペラの歴史の中で、僕は、6つの作品をオペラというジャンルの里程標、転機を作っていった作品としてあげています。後で申し上げます、名前は。だから、その中に《ペリアスとメリザンド》も入っているんです。ですから、中劇場の舞台を使って、演奏会形式で《ペリアスとメリザンド》なんかを聴いていただく。つまりコンサートオペラを、10周年を機に制作をしていこうていうと、制作部と話をしているところなんです。これまで、ホールオペラっていうのは随分ありましたよね。サントリーホールでもやっているし、大野さんが東フィルのオペラコンチェルタンテっていうのをやっていらしゃった。でも、それは演奏会場でやっている。なので、オーケストラは舞台の上にのっているわけですね。東京交響楽団のヤナーチェクにしても、舞台の上にのっている。でも、この中劇場だったら、オーケストラはオーケストラボックスに入れる。そして舞台は何にも飾らない。美術も、衣装も着ない。もう譜面台を立てて、譜面を見ながらでもいいから、音楽を一番いい状態で、お客様に聴いていただこうということを、計画しているんです」
――それは、どこもやっていないですよね。
「まだ、やっていないです。オーケストラは、オペラの時は必ずオーケストラボックスにいるもので、そして舞台の上は、歌う人が立つ場所だっていうのをはっきりさせるとですね、そのほうが音響がいいんです。オーケストラが舞台の上にいると、歌い手がどんなに声を張り上げても、オーケストラの音がわんわん鳴ったりしますから。それを計画しているわけですよ。大劇場のオペラ劇場のキャパシティで6回公演は無理だっていう作品は、そのようにして、演奏会形式でも、コンサートオペラっていう名前を打ち出して、やれたらいいなって思っている。
 で、そうした時に絶対必要だと思うのは、僕がさっき6作品って申し上げた作品。要するに、オペラっていうのはこういうものだって思っていたら、『えっ?そういう可能性もあるの?すごいじゃないか』『えっ?もっと驚きだ。オペラっていうジャンルの中にこんなものができるのか』っていうのを築いた作品です。まず、モンテヴェルディの《ポッペーアの戴冠》、それからモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》、ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》、それとドビュッシーの《ペリアスとメリザンド》、アルバン・ベルクの《ヴォツェック》。これがオペラの400年の歴史の6つの里程標だと思うんですよ。なのに、この劇場は1作もレパートリーに、この6作品がないんですよ。以前、《ドン・ジョバンニ》は1回やったんですけれども、ウィーンから舞台を拝借して上演して、それでウィーンに道具を全部返しちゃっていますから、再演はできない状態で、もうここ数年「ドン・ジョバンニ」やっていません。だから、やっぱりあれは大事なレパートリーにして、みんなに観ていただくようにしたい。
 それから、これはもう僕の任期の間にはとってもできないけれども、きっかけだけは作っておきたいと思うのは――最終的には30年かかるか、50年かかるか分かりませんけれども――海外のオペラ劇場のようなレパートリー公演。要するに、月曜から日曜まで同じ作品が1回しか出ないという、日替わりメニューの公演ができるようになったらいいなと思って。それの下地づくりのために、僕は一生懸命、力を出そうとしているんです。僕の任期中にはとってもそこまで、行きませんけれども、でもそこに目標を持っているか、持っていないかというのは、もう大違いですから。やっぱり将来的には、そういうことが出来るような劇場に育って欲しいなと」
 

――(約束の時間が過ぎて) あと10分だけいいですか?
「はい。もちろん」
――若杉先生ほど日本の歌手をこれほど知っていらっしゃる指揮者は多分他にはいらっしゃらないですよね。
「ああ、そうかもしれませんね」
――日本の歌手をどういうふうに活用していくか、ここの舞台にのせて活躍してもらうかっていうのも、また大事なことかなって思うんですけれども。
「そうなんですよ。びわ湖のヴェルディ・シリーズに通っていらしていたからお分かりになるでしょうが、日本人の声楽家たちの力が立派なもんだと、ちゃんとパフォーマンスを立派に日本人だけのキャストでやれるんだっていうことを、僕は立証したつもりなんですよ。
 初め、(びわ湖の)劇場ができる時に――設立準備委員会から居たんですけれども――主役は外国からお上手な方を呼んでねっていうのが、あちらの希望だったんですよ。それで、『いいえ、短期間日本に来て、練習にも途中から参加して、私はこの役だったら30回歌っています、みたいな人がやるよりも、日本人がチャレンジしたほうが、絶対結果がいいから』って言って。それで、日本人だけでキャストを組んでやって、立派に出来たと思っていますね。
ですから、国立劇場も、もっともっと優れた日本の歌い手の方の活躍の場になるべきだと思います。やっぱり日本の国の劇場なんだから。ただ、実際にですね、ダブルキャストでやったりすると、ポスターに上から4人カタカナの名前が載っている日は入場率が92%、漢字の名前が載っている時は68%ぐらいに、入場率が違うんですよ。だもんで、やっぱり劇場としては、ホセ・クーラさんに歌ってもらいましょうよ、というふうになるので、なかなか日本人にお鉢が回ってこない。
 これはですね、この劇場の制作担当の係のみなさんが、絶対外人じゃなきゃダメだよって言っているんじゃなくて、お客様がそう言っている。入場率から言えば。だから逆に、オペラを愛好していらっしゃる日本のお客様に、日本の歌手がもっと素晴らしいんだということを、"洗脳"していかなきゃいけない。私は、何さんと何さんと何さんが出る日本人のキャストのほうに行きたいっていうふうになるように。そうなれば、そんなに外国主役歌手に依存しなくても、日本らしい劇場が出来ると思うんですね」
――福井さんだったら、必ず行きます!
「はいはい。福井さんは《黒船》は、3日とも全日出演してくれますから」
――そうですか。行きます。
「ありがとうございます。もっと日本の歌い手が活躍できる劇場にだんだんになっていけば……一朝一夕はダメですけれども、将来的には、レパートリー公演が出来るようになるのと同時に。レパートリー公演だったら、外国の主役の人を13時間飛行機に乗って来てもらって、次の公演まで10日空いて、また次の公演まで7日空いてって、それだけ拘束するのは無理な話ですから、やっぱり日本に住んでいらっしゃる方が、やり遂げてくださるべきだと思うので。そういう意味でも、だんだんだんだんにお客様が、外国人依存じゃなくて、日本に住んでいる歌い手の力をもっと認めてくださって劇場に足を運んでくださるようになれば、もっともっと日本人の主役たちが、舞台で立派にやれるところを見せられると思うんですけれどもね」
――それをお客に知らせたいっていうともあって、びわ湖では日本人の歌手にこだわられた。
「そう。出来るじゃないっていうところを、見てもらいましょうっていう気持ちがあったんですよ」
――あれは本当に成功していらっしゃいましたよね。私たち、やっぱり東京から行きたいって思いましたもん。
「これまで、日本に劇場ができる前は、90%は適材適所ができないシステムだったんですね。つまり、藤原歌劇団は、藤原歌劇団の団員でないと、舞台に立てない。二期会は二期会で、二期会の団員が出るので、二期会の公演には、藤原の歌手は入れないということになるから。つまり自分の団体の公演、団体に所属する人しか出られない。ですから、琵琶湖なんかはああやって、もう藤原歌劇団でも二期会でも、パリに住んでいる日本人でも、みんなこの役はこの人がいいと思う人に声をかけてる。要するに、野球で言えば、オールスターですよ。それが、できる。
 幸いなことに、ここの劇場もそれができるわけで、二期会と特別契約している訳じゃない。藤原と特別契約している訳じゃない。ですから、やっぱりいいキャスティングが組めるわけですね。だから僕は、みなさんが『大変でしょう?忙しくなりますね』って言って下さるんですけれども、僕はわりと明るい希望を持っている。事に当たるにあたって、非常に明るく――ストレスが溜まるような態度じゃなく――劇場で仕事ができるつもりでいます」
――ファンの裾野をどうやって広げていくかについて、考えていらっしゃることはありますか?
「そうですね。やっぱり、まずは良質な舞台を提供すること。それで口コミで、『あれはご覧になった?とっても良かったわよ。行っていらっしゃれば?』っていうふうに、だんだんだんだんなると良いんですけれども。問題はですね、僕が小学生の時に最初に「蝶々夫人」を観たのは、テレビもない時代ですから。情報が無い時代。興業の種類も少なかった時代ですから、オペラをやればみんな集まったんですよ。ところが、今はテレビでも観られる。DVDでも観られる。そしてミュージカルのほうが面白いとかって言って、《CATS》が70回、80回と出来るだけの聴衆がいる。それをなんとか、オペラも面白いって思ってもらいたいなと。やっぱりあれだけの長期公演ができるのは、立派なことですから」
――そのためにはどうしましょう?
「 そうですね。まあこれから、僕自身がこの劇場の体質をもっと知らなきゃだめですね。2年近く参与をしていますけれども、まだまだ劇場の体質を完全に把握してはいないですから。劇場の中の意識が1つに集まるようにして、じゃあ、観客動員はどうするっていうところに行きたいと思うですね。でも、僕、わりとオプティミスティックですから、そんなにキリキリはしないです」
――びわ湖なんかでもそうでしたよね。若杉さんのアイディア、考えが、隅々まで行き渡っていて、本当に素晴らしかったなって思うんですけれども。
「そうなんですよ」
――ホワイエで休憩時間にお酒を注いでくれる人に至るまで、自分たちの公演だ、盛り上げたいって思っているのが分かりました。
「 そうそうそうでした。びわ湖ホールを設立するのにあたっては、何センチ間隔で枕木を置いて、その上に幅何センチのレールを渡すかって、なるべく曲がらないように真っすぐ行くか、っていう風にして、一緒につくってきましたから、いいんですけれども、ここは10年経っていますから。それは素晴らしいことであると同時に、10年間の垢も溜まっていますし、錆も溜まっていますから、その体質を僕が良く把握しないと。あんまり新しいことばっかり言ってもいられないと思います。でも、僕はとってもここも朗らかな劇場になると思っています。琵琶湖ホールはですね、芸術監督がこの演目を選んで、こういうメンバーで、こういうふうにやりますって言った時には、一生懸命それが成功するように、みんなが力を合せて、支えてくれてたんですね。
 1つ良かったのは、最初の年から、月例ミーティングという決まりを作って、各部署、総務、会計、企画、運営いわゆるその部長さんクラスの人たちが、大きなテーブルに付くんです。そこで、次の公演のためにあなたの部署はこれがやって欲しいんです、あなたの部署ではこれをしてくださると助かりますとかっていうことを、私が説明する。そうするとみなさんが、どこの方向に向かってこの船は進むのかっていうのが、毎月分かってくださるわけです。月例ですから、30日に1回あるわけで、そうすると軌道修正もできるわけですよね。ちょっと、待ってよ、そのやり方は違うんじゃないとかって言いながら。ですから、みんなで仕事の仕方の方向を一緒に考えていましたから、すごく良かったですよ。
 こういうことがあるんですよ。オペラっていうのが、ものすごくお金がかかるじゃないですか?制作費がすごくかかる。それで、『若杉さん、もうオペラは2年にいっぺんにしてくださいよ。こんなにお金がかかって、1年の予算の大半、オペラが食べちゃうから』と。で、『じゃあ、なんでそんなにオペラにお金がかかるかって、どこを削れるか』って言ったらば、一番大変なのは、助演という役柄にすごいお金がかかるんですね。日当を出さなきゃなんない、練習費を出さなきゃなんない。そして本番で欠員があっちゃいけない。だから、『それを館の人でやりませんか?』って言ったんです。そしたらもう、県の職員をしていて、びわ湖ホールの部署に就いている方々が、みんな出たがったんです。何しろ、イタリアで出来た衣裳を来て、かつらを被って、長靴を履いて、番兵になったりなんかするので。そうして、あれほど『オペラは2年にいっぺんにしてくださいよ』って言ってた、劇場の大蔵省の人が、いっぺん長靴履いて、槍持って、長靴履いて、番兵に立つと、手の裏返したみたいに、『若杉さん、来年(の演目)はなんですか?』って。
 ああいう劇場ないですよ。職員が、手を挙げて『出たい』って。みんな黙り役ですよね。歌わない、喋らない、それをやってくださるのでね。演出の先生が、『戦争の場面だから、死骸が5人いる』とかって言うと、その死骸を志願してやってくれる人がいるわけですよ。そんな劇場、ヨーロッパでもなかなかないですよ」
―― それだから、自分たちの公演だっていう気概があるわけですね。
「そうそう、そこに繋がって来るの。前なんかはね、総務課には全部で7人いるわけですよ。そのうちの6人が『出たい』って。そしたら業務停止になっちゃうから、各部署からふたり以上はダメっていうルールを決めて、それで募るとざーっと集まるんですよ」
――そんなに人気だったんですか?
「うん」
――そうやって、若杉体制の中で、ここも良い方向になっていくといいなと思います。
「新国立劇場も、僕が絶対、そういう朗らかな劇場にできる自信があります」
―― ありがとうございます。もっともっと聞きたいんですけれども、お約束の時間をずいぶん過ぎましたので。また次の機会を作っていただけますか。
「こちらこそ、喜んで」

<写真撮影スタート>
――若杉先生っていうと、日本初演が多いですよね?
「そうですね」
――初演ものとか、すごく難しくて、新しい20世紀の作品とかそういうのをたくさんおやりになるのは、なぜでしょう。
「そうだなあ、なんて言ったらいいのかな。要するに、まだ日本に紹介されていない、日本で演奏されていない、良い作品っていうのを、是非日本のお客様に出会っていただきたと思う作品をわりと取り上げるものですから。だから初演というのが多いのかもしれませんけれども、何も功名心で初演を選んでいるんじゃないんですよ」
――初演っていうのは、何しろ初めてなわけですから、大変でしょうね、練習とか。
「そうですね。でも、ベートーヴェンの《運命》だって、自分に取っては、初演だった時がありますから。チャイコフスキーの《悲愴》だって、自分が初めてやるときには、若杉弘にとっては、初演なんです。ですから、そういう考えだと、シェーンベルクだとか、アルハン・ベルクだとかいっても、びっくりしないんですよね。ひと様が、"初演魔"だとか何とかっておっしゃるほど、大変なことをしている訳じゃない」

――全部で何作品くらいあるんですか?若杉さんが初演をされた曲っていうのは?
「さあ、数えたことがないなあ。マネージャーでも数えてないですよ。きっと」
――私が拝見したのだけでも、かなりあります。
「リヒャルト・シュトラウスは15、オペラを書いているんですよ。そのうち11やっていますから。この《ダフネ》が、僕にとっては、12個目のリヒャルト・シュトラウスで、あと3つですがね。それは取り上げる意味がないと思っています。 一番最初の失敗作の《グントラム》とか、それから《平和の日》とか、上演してみてもそんなにその成果があがらない作品ですので。これまでやった12作品でシュトラウスは充分だと思っているんですよ。やっぱりやる価値がある曲と、ない曲とががありますから。
この《ダフネ》は、日本で上演されていなかったから、初演になるだけの話で、初演になるから取り上げるっていうんじゃないんです。何しろね、最後の、ダフネが月桂樹に変身する変容するところの音楽が、これはもう、こんなに美しい音楽があるのかというぐらい、本当に魂がとろけそうに奇麗なんですよ。この最後の変身する変容する場面が、一番最後に取ってありますから、そこで、みんな『ああ、いいなー』って思ってくださるでしょう。どうぞよろしくお願いします」

< 写真撮影終わり>

―― 私も、CDを買って、今聴いているんですけれど、すごい奇麗ですよね。本当に楽しみに伺います。
「ぜひ、お待ちしております」
――お疲れのところ、ありがとうございました。でもね、最後に1個だけ聞いていいですか?
「はい」
――新国立の契約は3年間ですよね。だけど、仮にですよね、2年後に火星が地球に激突するかもしれないという時に、それだったら、順番変えてでも、これはやりたいっていう演目は、ありますか?地球最後になるかもしれないっていう時に、これだけはやっておきたい、と。
「《トリスタンとイゾルデ》」
――その心は?
「随分たくさんワーグナーをやって来ましたけれども、《トリスタンとイゾルデ》は舞台で指揮してないんですよ。コンサート形式では指揮しているんですけれども。だから、やってみたいと思いますね」
―― 地球最後の日とは言わず、是非とも見せて下さい。
「そうですね。なかなか《トリスタン》に行けない理由が1つありまして、その2年目と3年目とに、2作ずつ、《指環》の再演がある」
――トーキョー・リング?
「だから、来年は――これまだ企業秘密なんですけれども――来年は、《ラインの黄金》と《ワルキューレ》があって、その次に《ジークフリート》と《神々の黄昏》。そうすると、何しろ10作品しかやれないところに、ワーグナーが2曲あるから、それに《トリスタンとイゾルデ》だと、1年にワーグナーが3曲になってしまいます。1年の3分の1はワーグナーですっていうわけには、やっぱりいかないからね。ワーグナーのお客様は多いってとは言っても、ワーグナーを嫌いな人だっているわけですから」
――いろんなお客さんに対応しなきゃいけないので。
「そうなんですよ」
――とはいっても、お客さんの希望だけ聴いてても、お客の進歩がなくなっちゃいますし。
「そうなんです。だから、どこの団体でも4年にいっぺんくらいやっているような《蝶々夫人》《カルメン》《トスカ》だけじゃ……。 それだと、他の団体でもやっていますよってなりますから。やっぱり新味性のあるものを取り上げないと、いけないんです。ですから、3年計画を見て下さると面白いんですけれども」
――早く見たいです。あの山田耕筰さんの作品も、日本で初めてやられるんですか?
「 そうです。本当のグランドオペラは、あれが、第一作ですね。山田先生ですから、歌のメロディが奇麗です。それまでも小松耕輔先生とか、何人かがオペラにチャレンジしたんですけれども、規模は小さなものでした。ああいうグランドオペラっていうのは、第一作ですから」
―― 日本のオペラファンとしては是非観ておきたいですよね。
「そうなんですよね。僕の考えは、オペラっていうのは、もともとが劇だったものに、作曲家が作曲したほうが、絶対成功率が高い。もともとは小説だったものを、オペラにすると、小説っていうのは、僕から見ると、あの紙に字が印刷されている、平面に、ですよね。それを読みながら、一人ひとりの読者が、自分で空想劇場を建てているわけじゃないですか。一人ひとり違いますよ、そのイメージが。ところが、初めっから立方体として、劇として立ち上がっているものに、いい音楽が加われば、もっとメッセージが強くなる。ですから、例えばですね。日本でできるオペラにしても、黛敏郎さんの《金閣寺》っていうのがあります。でも、これは小説ですよね。いくら有名でも、『潮騒』にしたって『金閣寺』にしたって、みんな小説。だけど、三島由紀夫全集には、1つの巻で8作くらい戯曲が入っている戯曲編が5冊もありますよ。それなのに、どうしてもともとお芝居だったものを、オペラにしなかったんだろう。もうこれは溝口がただただ、嘆いて、憂いて、でも何も劇が始まらない。辛いとか、我慢できないとか、そんなのばっかり歌ってるわけじゃないですか。暗記するのは大変な分量なんです。そうするとね、1時間それを聴いているとね、いいからもう早くお寺焼いてよ、早く火つけなさいよって言いたくなる。劇として組み立たってないから。あれは、ドイツのベルリン・ドイツ・オペラの依嘱だったんです。ドイツ語に訳されている三島さんの作品では『金閣寺』が代表作だってことになっていて、せいぜい後は『近代能楽集』がドイツ語になっているくらい。三島さんは、いいお芝居を書いているのに、委嘱する方がそれを知らないで、代表作(の『金閣寺』)をオペラに作って頂戴と」
――日本のオペラでは、團伊玖磨さんの《夕鶴》が、あれだけ長く愛されているというのは……
「もともとのお芝居が素晴らしいですからね。ですから、岡本綺堂さんの『修善寺物語』だって、やっぱり、人気はありますよ。『あっぱれ、伊豆の夜叉王。伊豆の夜叉王、我らが天下一じゃ、あっぱれ。わはは…』
 清水脩先生はね、本当は関西弁なんですよ。だからオペラを作曲なさるとね、イントネーションが逆になるの」
――音楽が関西弁っぽくなる…
「うん、本当に関西弁になっちゃうんですよ。だから、『先生、またこれ大阪弁ですよ』と言われて、『もう勝手に直してくれ』っておっしゃったり。だけど、《修善寺物語》は、それは見事なんですよ。なぜ見事かと言うとね、団十郎さんのお得意な夜叉王。その団十郎さんのNHKの録音があるんですよ。あのラジオ用の録音。まだテレビのない時分に採ったやつです。それを全部テープで、聴きながら、団十郎さんの口跡のように、歌のパートを乗っけて行ったんです。清水先生は、何べんも何べんもお芝居で上演された時の、ライブの歌舞伎座の録音を聴いていらっしゃったから」
――セリフっていうのはそういう意味ではほんとうに大事なんですね。
「そうなんですよ。成功しましたけど、松本禎三さんの《沈黙》も、遠藤さんの小説ですね。遠藤さんにもお芝居はあるのになあ…」
――じゃあ、これから新国立劇場が誰かに依嘱するっていうことがあったら、やっぱり劇になったものをやるんですか?
「それは計画しています。まだ言えないんだけれど」
――楽しみに待っています。今日は長い時間、本当にありがとうございました。

 

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