心の葛藤を描ききったスカラ座《ドン・カルロ》

2009年09月16日

 ミラノ・スカラ座の来日公演に行ってきた。
 出し物は二つ。いずれもヴェルディの後期の作品で《アイーダ》と《ドン・カルロ》。どちらの物語も、宗教が政治や司法を牛耳る統治構造が生んだ悲劇だ。
 特に《ドン・カルロ》は、私がもっとも好きなオペラ(の一つ)。今回は、ルネ・パーペが歌うし、指揮が評判の高いダニエレ・ガッティということもあり、この公演を待ちに待っていた。当初チケットを買い求めていた公演にはキャスティングされていないバルバラ・フリットリをどうしても聞きたくて、清水の舞台どころか、飛行機からスカイダイビングをするくらいの覚悟で大枚はたいて2回も足を運んでしまった(そのために、しばしの”缶詰生活”をよぎなくされたが、その価値は充分にあった)。 
 何と言っても、ガッティ指揮のミラノ・スカラ座管弦楽団の演奏の美しさと音楽の厚さが見事。各パートが時に競い合い、時に溶け合う。特に、2回目に行った時には、1幕目からホール全体がまるで楽器になったように鳴っていた。どちらかというと響きがデッドな上野文化会館を、ピットの中からこんなにも豊かに鳴らすなんて、やはりガッティはタダ者ではない。何より、登場人物の思いを掘り下げ、あぶり出し、葛藤に満ちた心理をドラマチックに描いていていた。
 オペラの1幕と最後に、修道士が次のように歌う場面がある。
<心の葛藤は、天上においてのみ消え去るだろう>
 つまり、地上に生ある限り葛藤に苦しむしかなく、「生きることは即ち葛藤である」ということ。この一節が、太く重く、このオペラを貫いているのを、演奏からも演出からも感じとることができた。
 それぞれの役が、この世の中では解決することができそうにない葛藤を抱えている。
 それゆえに、フィリッポ鏡い鰐襪睫欧譴覆ぁ
<人生の最期において、わしは王衣をまとって眠ることができるのだろう。あのエスコリアル離宮の墓の暗いドームの中で、わしは初めて眠ることができるだろう>
 エリザベッタは静かに祈る。
<あまりの苦しみにうちひしがれて、この心が望むのはただ一つ。それは死の安らぎ>
 そのエリザベッタとカルロは、別れに臨んで、死後の世界に希望をつなぐ。
<私たちは、天上のよりよい世界で会えるでしょう>
 満たされぬ愛ゆえの嫉妬から犯した自らの過ちに絶望したエボリ公女の嘆きも深い。
<私の苦悩は、今生では修道院の中においてのみ、覆い隠すことができるでしょう>
 死に行くロドリーゴだけが、自分の役割を終えて、<私は幸せです>と言い残す。
 葛藤、苦悩、嘆き、無念……その中を生きる人間の哀しみが、かくも美しく壮大に奏でられる。改めて、ヴェルディの……というより、オペラ史上最高傑作の一つであると感じさせてくれる上演だった。
 
 ところで、この作品の主人公は誰なのだろうか。
 タイトルに登場人物の名前(もしくは愛称)がつけられたオペラは多い。ヴェルディのオペラにも《マクベス》や《リゴレット》、《シモン・ボッカネグラ》《オテロ》《ファルスタッフ》など半分以上は人の名前や《イル・トロヴァトーレ》とか《ラ・トラヴィアータ》などの愛称(?)がタイトルになっている。《アイーダ》もそうだ。
 今回の《ドン・カルロ》も、登場人物であるスペインの王子で、オペラは彼とエリザベッタとの「かなわぬ恋」を描いた悲恋物語であり、ロドリーゴを巡る友情の物語であり、フィリッポ鏡い箸隆屬良磴搬子の葛藤の物語でもある。
 ただ、作品には存在感のある登場人物が他にも何人もいる。ドン・カルロとの友情と虐げられた人びとを救う大義のために犠牲になったロドリーゴ。カルロを愛するがゆえに、嫉妬に狂い、王妃を裏切って後悔に苦しむエボリ公女。愛のない結婚をさせられながら、運命を甘受し、信仰と大義に心を捧げる王妃エリザベッタ。そして、世俗の権力を一手に握りながら、妻である王妃と息子であるドン・カルロの心だけは意のままにならず、世のむなしさを感じている王フィリッポ鏡……それぞれに、ヴェルディは心打つアリアを与えている。
 しかも、4幕版ではフォンテンブローの森での美しいアリアに始まる1幕をカットしたために、カルロの存在感はかなり薄くなっている。
 一方で、修道士の例の一節を含むサン・ジュスト修道院の場面が冒頭に来ることで、「生きることは即ち葛藤である」というテーマがより色濃く打ち出されている。
 そうなってくると、今回のスカラ座公演のように、演奏が登場人物の心理に迫れば迫るほど、苦悩の深さ、葛藤の複雑さという点で、フィリッポ鏡い梁減澳兇ひときわ重く感じられる。人生の虚しさと哀しみ、苦悩を切々と歌い演じていたルネ・パーペの貢献もひとかたならぬものがある。タイトルを《フィリッポ鏡ぁ佞畔僂┐燭いらいだ。
 5幕のパリ版から4幕のスカラ座版への改訂では、1幕をカットしただけでなく、それまでに書いていた曲の半分を削除して、新たに268ページも書き足したという。ストーリーと名曲アリアを残して新たに書き直したようなものだ。
 果たしてヴェルディは、単に時間を短縮するためだけに、それだけの手間と9ヶ月もの時間をかけて改訂したのだろうか。そうではなく、これを機会に、作品をよりよいものに練り直し、作り直していったに違いない。
 パリ版初演の時には53歳のヴェルディは、スカラ座での初演の時には70歳。この17年の歳月は、作品を作り直す時に、無視できない影響を与えているだろう。
 まったくの想像だが、この年月の間に、ヴェルディの思いは、愛を失ってなお生きる意味を探している若きドン・カルロから、人生の虚しさにうち沈む老王フィリッポ鏡い悗箸茲蠏梗个靴討い辰燭里任呂覆い。ヴェルディ自身は愛人がいて、その後傑作2作も書く創作意欲もあって、充実した生を送っていたのだろうけれど、やはり忍び寄る老いは意識せざるをえないだろうし。
 ヴェルディには、シェークスピアの《リア王》をオペラ化したかったが、諸般の事情で果たせなかったらしい。もしかしたら、フィリッポ鏡い魯凜Д襯妊にとってのリア王でもあるのかもしれない(コーディリアに当たるのはロドリーゴか?)。
 もっとも、その後ヴェルディは、劇場の依頼で、スカラ座版に1幕を戻した5幕版(モデナ版)も作っている。この時期の最大の関心事は《オテロ》にあったはずで、ヴェルディがどういう意図と思いで、どれだけの熱意と手間暇を注いでさらなる改訂版を作ったのかは、よく分からない。
 いずれにしても、登場人物の相関図を書くとすれば、5幕版ならドン・カルロが中心にいてもいいけれど、4幕のスカラ座版の場合は、フィリッポ鏡い鮨燭鹵罎肪屬いたい。
 フィリッポ鏡い蓮◆嵋たされぬ愛」「権力者の孤独」「聖と俗の権力闘争」「力による支配の限界」など、様々な苦悩を抱えている。
 世界で最高の権力を持ちながら、妻の愛も子どもからの敬愛も得られない惨めさをかこち、身近に心を許せる友も信頼のおける腹心もいない孤独に苦しむ。ロドリーゴが説く理想に心をひかれ、やっと信頼できる側近ができたと思ったら、教会の権威を代表する宗教裁判長に召し上げられる。世俗では最高位にいるのに、教会の力には、いつも膝を屈するしかない屈辱。けれども教会に権威づけられて初めて王位の権限が行使できる現実を認めざるをえない。そのうえ、教会と王位に抵抗を示しているフランドルの民の存在ゆえに、常に心穏やかでいられない……。
 それに老いが加わる。死んだ後のことを思えば、今の地位や人生にも虚しさを覚えるだろうが、それを全否定してしまえば、自分の人生は何だったのか、ということになる。まさに、生きることは即ち葛藤であるというテーマを、彼は体現している。
 他の登場人物にとっても、生きている限り葛藤は続く、というのは同じ。ただし、たとえばカルロの葛藤は、求める愛を父からもエリザベッタからも得られない、という――本人にとっては大きな苦悩だが――比較的単純な構造であるのに対して、フィリッポ鏡い諒えた悩みのなんと複雑なことだろう。作品の中心がカルロからフィリッポ鏡い飽椶辰燭里蓮△修譴世浦酩覆深まった証といえるのかもしれない。

 そうした複雑で深い生の葛藤を引きずるフィリッポ鏡い生き残り、生きることに目的を持っているロドリーゴが、最初に死んでいく皮肉! ドン・カルロもロドリーゴの死によって、ようやく自分の生の意味に目覚めかけた直後に、死の世界へと引きずり込まれる。
 ロドリーゴは、死にも目的を求める。だが、それは叶えられない。彼の死は、ほとんど無駄死にである。美しい犠牲は生かされなかった。
 生の世界とは、なんという矛盾に満ちていることだろうか!
 
 ガッティの音楽作りやパーペのパフォーマンスに加えて、シュテファン・ブラウンシュヴァイクの演出も、登場人物の心理を際だたせ、ままならぬ人生を浮かび上がらせていたと思う。
 舞台には、常に墓や棺をイメージさせる黒字に白い長方形をずらりとあしらった背景が形を変えて出てくる。それが、修道士が告げる<心の葛藤は、天上においてのみ消え去るだろう>を常に意識させる。
 特に、フィリッポ鏡い凌缶詫佑砲弔い董△劼箸わ丁寧に描こうと務めていた。
 3幕のフィリッポ鏡い亮耕骸爾蓮△修貅体がまるで墓か巨大な棺桶のようだ。ガランとした灰色の部屋。天上は真っ暗だ。豪華な装飾はいっさいなく、あるのは粗末な椅子と、燭台が一つのみ。そうした寒々しい部屋の様子に、彼の心情が視覚化されている。
 そこで彼は、ままならない人生の虚しさを歌う。
 ただし、この演出では、カルロやエリザベッタ、ロドリーゴの子ども時代が、まるで亡霊のようにつきまとうのはいただけない。1幕、フォンテンブローの出会いを思い起こさせる程度は許せるにしても、2幕の教会前の場面で、父王に突きつけたカルロの剣を、子ども時代のロドリーゴに取らせるというのは、やり過ぎ。おまけに、フランドルのプロテスタントたちが火あぶりになるところで、子ども時代のカルロが高々と宙づりになっていくに至っては、なにをか況んやだ。これで子どもカルロも昇天したのかと思ったら、その後の場面でもまた現れるのだから、いい加減にして欲しい、という気持ちになる。宙づり場面など、子どもが大丈夫だろうかとか気になって、音楽に対する集中力がそがれてしまった。
 言いたいことは分からないではないが、言いたいことを全て視覚化して見せないと気が済まないというのは、なんとかならないだろうか。せっかく、シンプルで、かつ観客の想像力を刺激するような舞台設定をしておきながら、何とももったいないことだった。
 
 最後に、パーペ以外の歌い手について。まずは何と言っても、エリザベッタのバルバラ・フリットリが素晴らしかった。舞台に現れた途端、まだ一音も発していないうちから、ぞくぞくっとするほど。その気品に溢れ、清楚な美しさを備えたたたずまいといい、全身から醸し出される憂いといい、まさに悲劇の王妃そのものだ。終幕のアリア『世のむなしさを知る神よ』は、哀しみと清らかさにあふれる祈りは、心に染みいってきて、聞く者のの魂も浄められるようだった。
 ドローラ・ザージックのエボリ公女は、素晴らしいテクニックと迫力で圧倒的な存在感。1幕の『ヴェールの歌』がこんなに聞き応えのある曲だとは、今回の彼女の歌で初めて認識した。カルロが実は王妃を愛していると知った時の、怒りの激しさは圧巻だ。『呪わしき美貌』も迫力満点。ぜひ次は、彼女のアズチェーナを聞いてみたい。
 ドン・カルロのラモン・ヴァルガスは初日は声量が十分でないのが残念だったが、2回目ではかなり立ち直っており、特に4幕はつやのある声を聞かせてくれた。イタリア・オペラというと、金粉が飛び散るようなテノールを期待してしまうのだが、最後まで聞いてみると、この作品を深い心理ドラマとして描くのには、”金粉”より”いぶし銀”系の方が合うような気もしてきた。
 ロドリーゴのダリボール・イェニスは豊かな声で、品もあっていいロドリーゴだった。宗教裁判長のアナトーリ・コチェルガは低音の迫力だけでなく、巨躯で視覚的にも周囲を圧倒し、役柄の権威と力を存分に伝えていた。
 
 何でも、ダブル・キャストの一方が来日できなくなった人が続出で、パーペ、イェニス、コチェルガはすべての公演に出ずっぱりらしい。すごい体力と節制だと思う。インフルエンザの影響をとても心配していたのだけれど、パーペとフリットリが来日不能になったりしないで、本当によかった。
 
 少し気は早いけれど、今年の日本でのベスト・オペラはこれで決まり、という気がする。

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