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ちょっと髪の毛が風に踊っていますが…。5月、スウェーデン・ストックホルムにて 【撮影・提供 渡邉英昭氏】 |
とりたてて波乱も冒険もなく、実にのほほんと平凡でテキトウな学生生活を送ってしまったため、周囲の友人が就職活動を始めた時にも、自分がやりたいことが見つかりませんでした。「どうしよう」と焦る中で、ふっと「やりたいことが分からないのは、私があまりにも世の中のことを知らないからでは?」と思い、「もう少し世の中のことを見たり、聞いたり、知ったりするには、やはりマスコミが一番」、と新聞社を志望。
1982(昭和57)年4月から1987(昭和62)年12月まで、神奈川新聞社で社会部記者として勤務。警察や裁判所での事件取材に加え、何度か連載企画を担当する機会を与えられ、取材や原稿を書くことの基礎を学ぶことができました。ただ、「神奈川という地域に限定されないで、飛行機に乗ってもうちょっと遠い所にも行きたいなあ」とか、あれこれ漠然とした思いが積み重なって、これまたなんとなく「30歳前には区切りをつけよう」という気になって 29歳で退社。
新聞社を辞めてからは、フリーライターとして、ポツポツと雑誌に原稿を書くようになりました。
1989(平成元)年11月に、坂本堤弁護士とその家族が行方不明となって以来、オウム真理教問題と関わるようになりました。
併行して、いくつかの冤罪事件や警察の問題、雲仙・普賢岳の噴火災害をメインに災害の取材なども行ってきましたが、1995年3月以降、それもままならなくなってしまいました。
地下鉄サリン事件、そしてそれに続く強制捜査以降、オウム真理教問題に集中することになり、仕事、というより生活がすっかりオウム一色に。連日のようにテレビ出演していたのは3カ月足らずですが、その年の夏場からはオウム事件を裁く裁判が始まりました。以後、東京地方裁判所を中心に、各地で行われているオウム裁判の傍聴に通うことが、私の生活の中心に。最初は「週刊文春」で、その後「週刊読売」で4年半、傍聴記を書いてきました。今後の裁判の動きなどオウム問題は、この「江川紹子ジャーナル」で、逐一ご報告していきます。
その後1997年秋から99年3月までNHKの「青春探検」のレポーターとして、98年春から今年春まで、NHK教育テレビの「少年少女プロジェクト 聞きたい!10代の言い分」で聞き手として、若い人たちの話をあれこれ聞く機会を得ました。
その後も、若い人たちへのインタビューシリーズ「人を助ける仕事」、父と娘の関係を聞く「父と娘の肖像」などのインタビュー企画を行いました。
また最近、次世代へのメッセージをこめて、「勇気ってなんだろう」(岩波ジュニア新書)を出しました