そろそろ本題に入ろう〜ライブドア高裁決定を受けて

2005年03月24日

 やれやれ、という気持ちでいる。
ニッポン放送のフジテレビに対する新株予約権発行に関して、東京高裁も東京地裁の仮処分決定を支持し、同放送の抗告を棄却した。ニッポン放送は特別抗告を断念し、本訴も起こさないようなので、これで司法を舞台にした争いには、一応ピリオドが打たれた。
 高裁は、地裁決定よりさらに踏み込んだ内容になっている。ニッポン放送がライブドアの子会社になった場合、フジサンケイグループから取り引きを打ち切られると主張したことに関して、それはフジテレビが「ニッポン放送の事業活動を困難に陥らせる」ために取り引きを拒絶すると認めているに等しく、「そうであれば、これらの行為は独占禁止法に違反する不公正な取引行為に該当する恐れもある」と指摘したのだ。
 またフジテレビがニッポン放送株の公開買い付け(TOB)期間中から、同放送との取り引き打ち切りなど、株価を下げる要因になるようなマイナス情報を流したことに関しても、裁判所は「証券取引法159条に違反するとまでいわないとしても、公正を疑われる行動といわなければならない」と批判した。
 「(法律)すれすれのずるい手」(亀淵ニッポン放送社長)を使っていたのは、法律的にはライブドアよりむしろフジテレビの側だった、ということのようだ。
 フジサンケイグループは、ニッポン放送の企業価値を低める「焦土作戦」をちらつかせていたが、今回の決定でますます実行には移しにくくなった、と言えるだろう。
 今後も予断を許さない状況ではあるが、ようやく当事者同士が話し合いのテーブルにつかなければならない、という環境になってきた。
 どうかこれで支配権争いは終わりにして、メディアのあり方をめぐる議論をきちんとしてもらいたい。

ニッポン放送の今後

  高裁決定を受けたライブドア堀江貴文社長は、記者会見の中で、我々は放送業界は素人なので、こちらのほうから教えを請い、教わる部分は教わって、価値を提供できる部分は提供して、さらに活気にあふれたニッポン放送を作っていきたい」として、ニッポン放送の内部に渦巻く不安や反感に配慮する姿勢を見せた。
 実際、彼が言うように、ライブドアは放送や報道に関しては、ど素人だ。
 彼らのサイトを見てみればそれは一目瞭然。確かにブログの使い勝手など、インターネットの領域に関してはさすがに一日の長があるけれど、彼らがやっている動画ニュースなど、今時アマチュアでももっとまともな映像を撮るし、喋り手もアナ研の学生の方がよほどうまい。彼らが「パブリック・ジャーナリスト」と呼ぶ、プロの記者ではなく、一般市民から募った人たちが書くものには、このところ堀江社長ヨイショの文章が目立ち、報道や論評というより、サークルの同人誌といった観がある。自前の記者の記事も、どこかの発表文をまとめたような感じで、いかにもまだ緒についたばかりという状態だ。
 ライブドアの看板を掲げて出しているのがこの程度なのだから、彼らがメディアの現場を乗っ取ったり、牛耳ったりして、新しい放送などができるはずがない。
 メディアで大事なのは、箱ものではなく中身。それを作る人を育てるのには時間も金もかかる。それは、何かとすぐに結果を出したがる彼らの体質には馴染まない。
 自分たちの能力が分かっているからこそ、また自前のメディアを育てる時間を惜しむからこそ、堀江氏らはニッポン放送、さらにはフジテレビという既成のメディアの買収や提携に乗り出したのだろう。
 堀江氏は、しばしば既存メディアを取り込むメリットについて、「リーチ」と「ブランド」という言い方をする。現段階で多くの人々に情報を届けることができ、人々に信頼もされている、という意味だ。
 だが、それだけではないだろう。すでに十分に訓練を受け実績もある記者やディレクターやカメラマンや技術者という人的資源、さらに長年の経験で培った様々なノウハウ。それこそが既存メディアの財産だ。メディアごと取り込んでしまえば、この貴重な財産を一挙に取得できる。ゆくゆくは、それをインターネットの領域でも活用し、そうすれば、いずれメディアの中心がネットの世界に移行していく時には、トップランナーに立つことができる。
 これこそが、堀江氏の目的、と言えるのではないか。
 
 となれば、ニッポン放送の現場をメチャクチャにしたり、フジテレビとの提携が成功したとしてもいきなり大胆なリストラを行って社員を失うようなことはしないはずだ。
 そんなことをすれば、リスナーや視聴者を失い、企業価値を低下させるだけでなく、既存メディアからインターネットへの移行を促進するという堀江氏自身の目的を達成することができない。

実物大のホリエモンは?

 高裁決定後の堀江社長の会見は、個人的にもとても興味深いものだった。
 というのは、その前日、私は堀江氏とメールのやりとりをしたのだが、それが反映されているかのような内容だったからだ。
 堀江氏という人は、ライブドアという一国一城の主であり、教祖的な存在として描かれることも多いが、納得すれば他人の意見も受け容れる、案外柔軟な人間なのではないかな、という気がしてきた。 
 
 一連の出来事の中で、堀江氏の存在がマスコミを通じて実態以上に強大な存在に描かれてしまったのではないだろうか。
 堀江氏の大風呂敷にみんなが乗せられ、それがマスコミを通じてもっと大きなイメージに膨らんでしまったような気がする。
 私も10年前、オウムに対する強制捜査が始まってから3ヵ月ほどテレビにずいぶん沢山出たが、その間に、実際の自分とは異なる江川紹子像が流布していることに気づいて、ずいぶん戸惑った。当時のテレビ番組を通じて私を知った方々の中には、私は常に毅然とし、理路整然と相手を追及し、下らないことで笑ったりするようなことはない、というイメージを持っていらっしゃる方が少なくないようだ。講演などで地方に伺ったり、インタビューをしたりする時に、よく「江川さんも笑うんですね」と驚かれた。
 マスコミの中でも、テレビというメディアは人の一側面を強調し、増幅して伝える特性があることを、私は身をもって知った。
 堀江氏は、確かに時代を読む先見性はあるし、人を引っ張る能力にも長けていると思うが、カリスマ性ばかりが強調されているうちに、なんだか人並み外れた宇宙人のような存在に飲み込まれるような恐怖感が醸成されてしまった嫌いはないだろうか。
 一部では、オウムと重ね合わせた論評まで目にしたことがある。教祖と信者の関係が似ているということらしいが、目的のために手段を選ぶか否かという一番大事な点で、両者は全く違っている。安易にオウムを比喩に使うのには、私はかなり抵抗がある。
 マスコミは、自分たちが作った蜃気楼に驚いて、騒ぎを大きくしすぎたような気がしなくもない。
 そして多くの人々は、この騒ぎを外野席からビール片手に観戦していた、という構図だったのかもしれない。

これからのメディアのあり方を考えるために

 司法での争いに決着がつき、当事者が話し合う状況になったところで、私たち内野席にいる者たち、つまりメディアに関わっている人たちも、頭を冷やし、現実を直視しつつ、これからのメディアをどうしていくのか、きちんと考えたり議論したりすることにしたい。
 堀江氏の口からこれまでに語られた将来のメディア像には、確かに疑問や不安を抱かせる部分がある。その一部には、堀江氏がメディアの現場を知らないゆえの発言、イライラしてつい極論を言ってしまった失言もあるのではないか。堀江氏には、どうかその言葉通り、現場を学んで欲しい。そのうえで、もう一度議論を交わしてみたい。
 
 今回の騒動の中で、私は講演に出かけるたびに、冒頭、堀江氏とフジテレビの日枝氏やニッポン放送の亀淵氏の誰を支持するか尋ねてきた。どこでも、老若男女を問わず、圧倒的に堀江氏支持が多い。
 それがどうしてなのか、考える必要もあるだろう。
 一つには、彼は既存のしらがみをぶち壊し、よどんだ社会状況に風穴をあけるのではないか、という期待があったのだと思う。その意味では、「自民党をぶっ壊す」と言って小泉さんが一躍人気になったのと少し似ている。
 堀江氏には悲壮感がなく、第3者として罪悪感を感じることなく安心して見ていられるし、そういう元気者は応援したくもなるだろう。
 そのうえ常にホンネベースで語る。相手が誰であれ、その態度を変えることがなく、表裏がない人でもあるようだ。だから、話が分かりやすい。
 一方の日枝氏がいくら「公共性」というタテマエを掲げても、今の人々はテレビ局が実は「視聴率」で動かされていることを知ってしまっている。しかも、自民党の政治家たちがフジサンケイグループへの声援を送ったりするものだから、フジテレビが既存の権力とつながって変革を阻止する抵抗勢力のような印象を与えた。
 これからのメディアのあり方を考えるうえでも、既存のメディアはホンネでモノを語らない限り、だんだんとそっぽを向かれていくのではないか。
 その意味でも、今回の出来事から得られる教訓は少なくないはずだ。
 この教訓を生かすメディアは次の時代に新たな飛躍をし、買収されないようにガードを固めることだけにしか関心がないところは尻すぼみになって、いずれは消えていくに違いない。

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