その二元論的発想が心配だ

2005年09月21日

「前は白黒はっきりつけたい方だったんですけど、それってすごく怖いと思うようになりました」
 あるテレビの企画で、戦時下のイラクに行った日本の若者たちにインタビューをしている時、一人の青年がそう言った。
 大学生の彼は、米英軍による攻撃が始まる直前に一度、ブッシュ米大統領が「主な戦闘は終結した」と宣言した後に二度イラクを訪れ、現地の人々と話をした。
 戦前のフセイン政権でも、多くの人の命が失われた。青年が会ったイラク人にも、フセイン体制を崩壊させるには、戦争しかなかった、と考える人が少なからずいた。ただ、そういう彼らも、アメリカの占領が長引く中で次第に考えが変わっていった。米軍を歓迎したのに、その誤爆によって命を絶たれた不運な人もいた。
 青年は、イラクに行く前も今も戦争が嫌だという気持ちに変わりはないが、「戦争さえなければいい」といった単純な問題ではないな、と思うようになった。
 世の中には様々な考え方の人がおり、いろいろな視点がある。同じ相手であっても、事柄によって意見が一致したり対立したりするし、時期によって意見が変化することもありうる。そういう多様性や複雑さを、青年はイラクを通して実感したそうだ。
 彼とは逆に、いつも白黒はっきりさせなければ気が済まない人たちがいる。彼らは、人やモノゴトを敵味方、善悪、正邪といったシンプルな尺度で割り切りたがる。
 その典型が、オウム真理教のようなカルト団体だ。彼らによれば、”真理”を実践する彼らは常に正しく、批判する人々は邪悪でレベルの低い人間ということになる。
 こうした二元論的発想は、しばしば武力と結びつく。善を実践し、悪を倒すという内向きの大義名分ために、手段を選ばなくなりがちだからだ。
 九・一一同時多発テロやロンドンでの爆破など一連の事件の背景にも、自分たちの主張は絶対的に正しく、そのために無辜の人々が犠牲になってもやむを得ない、とする二元論的発想を感じる。
 ただ、二元論に支配されるのは、カルトや”テロリスト”などの社会と隔絶した集団ばかりではない。「テロとの戦い」を率いる、ブッシュ米大統領の発想も、きわめて二元論的だ。彼にとっては、アメリカ流の「自由」と「民主主義」、そしてアメリカの利益が唯一正しく、それと相反する価値観は、「邪悪」に映るようだ。ご両人ともいやがるだろうが、ブッシュ大統領とアルカイダのオサマ・ビンラディン氏は、二元論的発想という点では、よく似ている。
 それは、どちらも一神教を精神的支柱にしているからだと考える向きもあろう。だが、果たしてそうだろうか。「鬼畜米英」と称して、米英に関するものはスポーツや文化まで排除したかつての日本を振り返ると、八百万の神も必ずしも二元論の罠から人を守ってくれるわけではなさそうだ。
 物事を善悪で語る二元論は、シンプルで分かりやすく、力強い。たいていは自分たちを「正しい」側に置いて他者を判断すれので、プライドも満たされる。そのために、人は容易に二元論的思考にはまり込み、違った価値観を認められなくなりがちだ。
 この二元論の危うさは、よほど自覚していないと気づきにくい。戦後六十年が経過し、アジアに対する罪の意識が希薄になっていくにつれ、私たちは一層、二元論の罠に陥りやすくなってきているような気がする。
 そんな時だからこそ、イラクに行った青年のように、現実を前にして「何が本当に正しいのか、分からない」と迷うことは、とても大切だと思う。分からないこそ、様々な意見や情報を求めたり、自分自身で考えるようになる。異なる価値観に触れて気持ちが揺れるような心の柔軟さこそ、「テロとの戦い」が世界各地で展開されるこの時代に、最も求められているのではないだろうか。
 私は、こういう青年が育っていることにホッとする一方で、昨今の風潮に不安も感じている。政治の世界では、一つの課題だけで人を「改革派」と「抵抗勢力」に二分してレッテル張りをする、二元論的発想が幅をきかせている。シンプルでインパクトのある論調だろうが、今の日本が抱える課題は、それほど単純なのだろうか。意見を異にする者に”刺客”を送って息の根を止めようというやり方がウケている世間の風潮も、なんだか気がかりでならない。
 
(8月16日付熊本日日新聞に掲載)

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