「民意」の名の下に
2005年10月22日
カラスが鳴かぬ日があっても「民意」の二字が新聞に載らない日はない――衆院選挙からこの方、そんな毎日が続いている。
郵政法案に”造反”した議員たちは、続々と「選挙で示された民意に従う」として、賛成に回った。自民党側は「民意には逆らえなかった」と勝利宣言。さらに他の課題についても「民意を受けて改革を加速させる」と鼻息が荒い。
政治家には、国民の声にしっかり耳を傾けてもらいたい。しかし、最近の「民意」の使われ方には、強い違和感を覚える。
まず、「民意」を理由に、郵政法案への態度を変えた議員たち。彼らは、自民党が「郵政民営化法案に対する国民投票」と位置づけた選挙に、法案反対の立場で当選したのではないか。彼らの選挙区には、自民党が法案支持の”刺客”を送り込んだにもかかわらず、有権者は彼らを選んだ。その有権者たちの「民意」はどうなるのだ。
300小選挙区の7割強を獲得した自民党が得た得票数は47.8%。公明党を入れても、49.2%と半数に届かない。自民党が言うように総選挙が「国民投票」と考えるならば、投票した有権者の半数をわずかに超える人々は、与党が出した民営化法案に反対の票を投じた、ということになる。
法案賛成議員が圧倒的多数を占めるからには、法案はすんなり通過するとしても、与党の法案には賛成できない人たちの声を受け止めて行動すべき人の変節は、有権者に対する裏切りではないのか。
人間は、いざ自分の立場が危うくなると、毅然と信念を貫けるほど強い人ばかりではない。だから、彼らが前言を翻したとしても、それを深く恥じ入っているのであれば、今回のことで自分の弱さを知り、人間として、あるいは政治家として成長していく、ということも考えられるだろう。
ところが、「民意」を反故にしたにもかかわらず、「民意」を盾に、平然としている輩が一人や二人ではない。参議院の中曽根某など、「教育基本法の改正とか、私は自民党員としてやるべきことがある」などと開き直っている。冗談ではない。こういう人間に、教育に関わる法改正など任せておけるだろうか。
今回の”造反”組の対応を見ていると、もし日本にヒトラーのような独裁者が現れ、国民的人気を得て政界に躍り出た場合、日本の政治家は、自らの信念や見識によって抵抗することもなく、長いものに巻かれるのではないか、という不安さえわいてくる。
一方、「民意」を錦の御旗に意気軒昂な政府・与党の対応も、いかがなものか。
選挙の結果は結果であり、民営化路線を進めるのはいい。けれども、政府案を支持しなかった半数以上の人々の存在を忘れてはいないか。支持は半数に満たないという事実を前に、もう少し謙虚になるべきだ。
それに、これまでもいろんな課題について、様々な形で「民意」は示されてきた。その「民意」はどう扱われてきたのだろう。
例えば、今年6月頃に各メディアが行った世論調査はすべて、小泉首相の靖国神社参拝に反対する声が、賛成をはるかに多かった。なのに、小泉首相は参拝を辞めるつもりはないようだ。
イラクへの自衛隊の派遣も、これまで行われたほとんどの世論調査で、反対意見が賛成を上回っている。つい最近行われた毎日新聞の調査でも「反対」が77%に登り、「延長すべき」の18%を圧倒した。にもかかわらず、防衛庁長官は陸自第8師団(司令部・熊本市)を中心にした第8次イラク復興支援群に派遣命令を出した。
北朝鮮に対する対応も、世論調査では経済制裁を求める声が大きいが、政府は話し合い路線を維持し、国交正常化への道筋をつけようとしている。
自らの方針に合う「民意」だけを汲み上げ、「民意」を強調するのは、ご都合主義ではないだろうか。
もちろん、「民意」だけでは政治は行えない。民意」はしばしば移り気で、一定しない。郵政民営化より年金問題の方に関心を持ちながら、小泉内閣は支持するなど、矛盾した「民意」を示すこともしばしばだ。政治家がそれぞれの信念や識見に基づいて、国民を説得したり、国民が欲しない政策を実行しなければならない場合もある。だからこそ、国会議員には憲法で次のような特権が与えられている。
<51条 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない>
国会で自分の考えに基づいた行動を行ったからといって、政治家を処罰したり封じたりするようなやりかたは、憲法の精神に反しているのではないか。
処罰を恐れるために、圧倒的多数を制する与党内が一色に染まり、政府の方針に反する言動は慎まなければならない雰囲気に包まれているとすれば、あまりに不健全で危ない。
「民意」の名を借りて、民主主義が後退したりせぬよう、国民やメディアはこれまで以上に政府を監視しなければならない。それが、小泉自民に圧倒的多数の議席を与えた「民意」の責任だ。
(2005.10.17付熊本日日新聞に掲載した原稿に若干の加筆をしました)