誰が歴史を作るのか
2006年05月26日
いい映画を見た。
タイトルは、『グッドナイト&グッドラック』。
1950年代、マッカーシー上院議員が先導した「赤狩り」旋風に、米国中が戦々恐々としている中、敢然とそれに挑んだCBSテレビのニュース・キャスター、エドワード・マロー氏の奮闘を描いた作品だ。
映画は、マスコミ関係者を前にした、マロー氏のこんなスピーチで始まる。
<我々の歴史は、我々自身で作るものです。もし五〇年後か一〇〇年後の歴史家が、今の3大ネットワークのテレビ番組を一週間分見たなら、そこに堕落や、現実からの逃避・乖離を感じ取るでありましょう><現代の人々は、裕福で、快適な現状に安住し、愉快でないニュースには拒否反応を示します。マスメディアも、それに追随しています。テレビは、人々に娯楽を与え、惑わし、現実から目をそらせています。このことを直視しなければ、テレビもスポンサーも視聴者も、後から悔やみきれない事態になるでしょう>
東西冷戦下、共産主義の脅威から国を守るという大義名分で行われた「赤狩り」で、ひとたび「共産党シンパ」のレッテルを張られた者は、証拠も示されず法的手続きも無視して職場から追放され、公聴会などに引っ張り出されて糾弾された。ソ連の核の恐怖と、うかつなことを言っては自分が次のターゲットにされかねないという二重の恐怖に縛られて、人々はなかなか異論を唱えられなかった。
そんな中、マロー氏の番組は、事実に基づいてマッカーシズムの危険性を指摘する。その番組がきっかけに、人々は少しずつ発言を始め、マッカーシーは急速に勢いを失う。しかしマロー氏自身も、傷を負う。根も葉もない噂を流されたり圧力によって、スポンサーが降りてしまい、終いには番組自体が潰されてしまったのだ。
映画は、マッカーシーらの演説や共産党シンパの疑いをかけられた者の査問など、当時のフィルムをそのまま使い、それに合わせて画面は全編モノクロ。ジャズ音楽やひっきりなしにもうもうと立ち上るタバコの煙(生番組の本番も、タバコ片手に行っていた!)が、50年代らしさを演出する。けれど、展開されていることは、昨今のアメリカや、ひょっとして日本の社会やメディアの現状と重なり合って見える。マロー氏の48年前のスピーチも、実に今日的だ。
9・11テロ事件の後、アメリカのメディアは一斉に愛国心を煽り、「対テロ戦争」の大義名分の前に、政府批判をしなくなった。議会でも、大統領に戦争の権限を与える採決に反対したのは、ほんのわずか。異論を認め、人が恐怖や身の危険を感じずに発言をできてこそ、自由と民主主義は守られる。だが、テロの恐怖と、愛国心を疑われるのを恐れてだろう、異論は封じ込められた。
日本でも、時の政権の政策に反対する者には「抵抗勢力」のレッテルが張られて、政権政党の中から小泉批判は聞こえてこなくなった。また、イラクでの人質事件では、とらわれた若者たちの命が危ぶまれている時点から、彼らへの非難や「自己責任」を求める声があふれかえったが、そんな風潮に違和感を覚えながら、それを表に出せなかった人は少なくない。
書店に並ぶ雑誌にも、政府に批判的な人や組織を「売国○○」と決めつけた見出しを見るし、インターネットの世界では、異なる意見を持つ人に「サヨク」のレッテルを貼りつけて侮蔑したり、他民族に対する偏見に満ちたナショナリスティックな言説が飛び交っている。その声高な断定ぶりには、異論を差し挟めば、たちまち自分がターゲットにされ、火だるまとなりそうな怖さがある。
教育基本法に「愛国心」が謳われることになりそうだが、今のような状況で、郷土や祖国を愛する心が、時の政権への支持や忠誠心にすり替えられる可能性は、本当にないのだろうか。そういう疑問も、最近は下腹に少々力を込めなければ言いにくくなってきた。
そんな時代だからこそ、一八世紀のフランス人哲学者ヴォルテールの次の言葉を、かみしめたい。
「あなたの意見には賛成しないが、あなたがそれを言う権利は、命がけで守ろう」
ただ本当は、いちいち命をかけなくても、恐怖にとらわれなくても、自由にモノが言える状態でなければ、健全で自由な民主主義社会とは言えない。幸い、日本はまだ、命がけでなければ発言ができない事態は、それほど多くない(ゼロではない)。だが、「まだ大丈夫」と安穏としていていいのだろうか。「それはジャーナリストの仕事」と人任せにしていて大丈夫なのだろうか。
もちろん、ジャーナリズムに関わる者の責任は重いし大きい。けれど、言論の自由は、ジャーナリストのための権利、というわけではない。個々のジャーナリストや新聞・雑誌・テレビ・ラジオといったメディアだけの特権ではない。
異論を口にしようとする者がほとんどなかったあの時代に、マロー氏は番組で、こう述べた。
「反権力の言動を、国家に対する裏切りを混同してはなりません。互いに疑心暗鬼になる社会はたくさんです。恐怖のあまり、狂気の時代に突入する、ということがないように、我々の歴史と原則を深く掘り下げるのです。そして、思い出そうではありませんか。この国の先人たちは、少数意見を書き、演説し、語り合い、擁護する時に、脅えることはありませんでした。マッカーシー議員のやり方に反対している者も賛同する者も、今は沈黙している時ではありません。先人たちから引き継いだ価値観、歴史をないがしろにするなら、我々はその結果について責任を免れません」
彼は、この発言を通して、政治家や他のジャーナリストだけでなく、視聴者に対しても、「市民の責任」を訴えている。
マッカーシズム批判番組の最後、マロー氏はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』を引用した。『シーザー』を持ち出したのは、マッカーシー議員自身が、この作品の中の「いったい何を食らって、シーザーはここまで肥え太ったのか」という台詞を演説の中で利用したからだ。マローは、同じ作品の少し前の言葉を引きながら、視聴者に問題提起をして、番組を締めくくった。
「この上院議員の行動は、同盟国に驚きと狼狽を与え、我々の敵方を利したのです。けれどこれは、彼一人の責任でしょうか。彼は、恐怖を生み出したのではなく、うまくそれを利用したにすぎません。キャシアスは正しかったのです。”ブルータス、悪いのは運命の星ではない。我々自身なのだ”……グッド・ナイト、アンド、グッド・ラック」
注目すべきは、ここで彼が視聴者に、今を生きる「市民としての責任」を訴えたことだ。この責任は、歴史や自由を重んじる価値観を築いた先人に対してのみならず、友人である同盟国の人々に対して、さらには未来の人たちに対しても負うべきものであることは、言うまでもない。
そんなマローの声に応えるように、この番組を境に、人々は発言を始め、マッカーシーは力を失っていった。
政治が悪い。マスコミのせいだ。よくない時代に生まれたのが不運だった――そんなふうに、他に要因を求めるのではなく、この国の構成員である一人ひとりの問題なのだ、とマローは言いたかったのだろう。このような困難な時だからこそ、一人ひとりが自分で考え、発言するべきだ、黙っているのは無責任だ、と。この訴えは、今の時代にも(というより、今の時代にこそ)大事な意味を持つのではないか。
しかも、一人のスター・ジャーナリストが世論をも動かしたマロー氏の時代に比べ、今のマスメディアははるかに巨大化し複雑化している。その一方で、ブログなど一般市民によるインターネットを利用した発言の影響力が急速に高まっている。大メディアも、視聴率など視聴者の動向に影響される。そういう時代に「市民としての責任」は、いかにあるべきなのだろうか。
「我々の歴史は我々が作る」――そう彼は言った。「我々」とは、一部の政治家やジャーナリストだけでない。もちろん、アメリカ人だけでもあるまい。日本に生きる私たちも、今という歴史を日々作っている当事者であることは、いつも忘れずにいたい。
(5月23日付熊本日日新聞〈江川紹子の視界良好〉に加筆をしました)