名張毒ぶどう酒事件・再審制度を否定する裁判官

2006年12月29日

 12月26日に名古屋高裁刑事第2部(裁判官=門野博、村田健二、松岡幹生)は、同高裁刑事第1部が出した再審開始決定ばかりか、死刑の執行停止までも取り消した。折しも、その前日に全国の3拘置所において4人の死刑囚に対する刑が執行されたばかり。津地裁での第一審から無実を叫び続けて47年。まもなく獄中で81歳になろうとする奥西勝さんは、冤罪を晴らしたいという願いを拒絶され、再び死と隣り合わせの日々を強いられることとなった。
 
 この日の朝10時、NHKの速報で第一報に触れた時、私はこれは誤報ではないかと思った。その後、インターネットで弁護団が「不当決定」との張り紙を掲げている写真を見て、唖然とした。そして、裁判所の決定内容を読んで、呆然となった。
 決定は、「弁護団が真犯人を引っ張ってきて目の前で自白させでもしない限り、再審は認めない。何が何でも確定判決を守り抜く」という裁判所の強固な”信念”に貫かれている。科学的な鑑定を積み重ねようと、事実に基づいた論理を展開しようと、一顧だにしない。すべて門前払いなのだ。
 かつて最高裁判所は、1975年5月、「再審制度においても『疑わしいときは被告人の利益に』という刑事裁判の鉄則が適用される」という判断を下した。「白鳥(しらとり)決定」と呼ばれるこの判断によって、過去に四人の死刑囚が冤罪で命を奪われる悲劇から救われた。今回の決定は、日本を白鳥決定以前の時代、つまり間違った捜査や裁判によって有罪判決となっても、原則として救済はしない、という昭和50年以前の状態に引き戻そうというに等しい。事実上の、再審制度の否定、と言える。
 もっとも、白鳥決定以降も、確定判決についての疑問を呈するだけで再審は開かれたわけではない。「この証拠が原審の時に提示されていれば、必ずや無罪判決が言い渡されていただろう」と裁判官が確信するくらいのインパクトのある新証拠が提出されなければ、なかなかゴーサインは出ない。事実上は、無罪の証明に近いくらいの高度な立証が弁護側に要求されてきた。だからこそ、ひとたび再審開始が決定された事件は、再審では軒並み無罪判決が出ている。
 名張毒ぶどう酒事件でも、第五次再審請求までに犯行と奥西勝さんを結びつける物証はほとんど証拠能力を崩されてきたにも関わらず、再審の扉はなかなか開かれなかった。
 「ぶどう酒に毒を入れられる者は、奥西以外にいなかった」と、いわば消去法で、裁判所は奥西有罪=死刑判決を維持してきた。
 
 しかし、第7次再審請求審で名古屋高裁は昨年4月、弁護人の提出した証拠のうち、3つのポイントに関して、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」と認めて、再審開始決定を出した。そのポイントをまとめると、次のようになる。
 (1)ぶどう酒の栓を一度開けてから再び元通りにしておく偽装的な開栓方法が可能であることを、実験によって証明した。
 これによって、公民館に酒が運ばれる以前、宴会の料理の準備をしていた民家に置かれている間に、奥西さん以外の誰かがこっそり毒を入れ、何食わぬ顔で元通りにしておいた、という可能性が出てくる。
 (2)確定判決では、ぶどう酒の栓は奥西さんが歯で噛んで開けたことになっている。しかし、証拠とされている外栓のツメの折れ曲がり方は、人間の歯によってできるものではなく、栓抜きのような平らな物を押し当てることで形成されることが、塑性力学の専門家の鑑定によって証明された。となると、奥西さんの自白とは異なる方法で栓が開けられた可能性が高い。
 (3)確定判決では、毒物としては有機リン系農薬でありTEPP剤を使ったニッカリンTが使われた、と認定されている。しかし、飲み残りのぶどう酒からは、TEPPは検出されたものの、ニッカリンTの製造過程で必ず混じるはずの不純物が検出されていない。事件当時の研究者は不純物が加水分解されたと考えたが、この不純物の分解速度はTEPPより遅いので、この毒物がニッカリンTであればTEPPが検出されるのに不純物が検出されないのはおかしい、とする化学者の実験と理論的な証明がなされた。これによって、「自宅にあったニッカリンTを使った」とする奥西さんの捜査段階での自白は事実と矛盾する。事件は、この不純物が混じらない方法で製造されている別のTEPP入り農薬が使われた可能性が高い。
  
 検察官の申し立てで行われた異議審による今回の決定は、この3つの可能性をすべてばっさりと否定した。
 この決定の特徴は、(A)証拠で説明できない点が出てくると、裁判官たちが「奥西が犯人に違いない」という前提で、あれこれと想像を巡らし推測を行い、その想像や推測を元に結論を導き出している、(B)奥西犯人説と食い違ったり、証拠上の矛盾する点はすべて無視する、(C)奥西さんの捜査段階の自白に依存している、という点だ。
  
 たとえば、(1)の偽装的な開栓について。
 犯行に利用されたぶどう酒は4つのツメで瓶の口を押さえている王冠(四つ足替栓)があり、その上に輪っか状の帯冠(耳付き冠頭)が重ねられた二重構造になっている。さらに、帯冠についた舌状の耳を覆うようにシール(封かん紙)が瓶の口に巻き付けてある。
 通常は、まず帯冠を舌の穴に火箸を入れてこじあけ、王冠を栓抜きなどで除くのだが、当時の新聞によれば、帯冠と王冠が一緒に抜ける場合も珍しくなかった。しかも一度開けてから再び栓をすれば、買った時と変わらないほどしっかり閉まるので、次にまた開ける時には栓抜きが必要。そうやって何度も開けたり閉めたりしている人もいた、という(昭和36年4月1日付中日新聞、右の図も同記事より)
 弁護人の実験によって、栓抜きを使えば、舌がついているのとは逆の方向から、シールを破ることなく、二重の栓を開けることができることがわかった。一度開栓して毒を入れても、外見はまったく買った時と同じ状態に戻すことが容易にできるのだ。
 それまでの裁判所は、シールの破片が公民館からみつかっているのだから、ぶどう酒は公民館に運ばれた後に開栓され、毒を入れられた、と断定していた。そして、ぶどう酒を近くの民家から公民館に運んだ奥西さんにしか犯行の機会はない、と結論づけていた。
 しかし、弁護人の実験によって、その前提が崩れた。
 宴会準備をしていた民家に、このぶどう酒は1時間ほど放置されている。再審開始とした原決定は、<他の者による犯行可能性が否定できない>とした。
 
 これに対して、今回の決定は、誰かが毒を入れて栓を元通りにしていた、という可能性について<全くあり得ないとはいい切れない>と一度はしぶしぶ認めておきながら、何の証拠にも基づかないまま、次のように決めつけた。
<これは何といっても特異な方法である。いくら周到で緻密な犯行を狙った犯人といってもこの方法をそう簡単に思いつくとは思われない
 そもそも、宴会の飲み物に毒を入れて、地域の女を皆殺しにしよう(甘いぶどう酒は女性用に用意されたものだった)という、犯行自体が「特異」なのだ。そういう「特異」な事件を起こす犯人が何を考え、何を「思いつく」のか、犯人でもない裁判官が推測で決めつけていいのだろうか。
 
 さらに、裁判官の想像の翼は、宴会でぶどう酒が開栓された場面へと羽ばたく。
 決定では、宴会では通常、まずシール(封かん紙)をはがして、指や火箸で引っ張り上げて帯冠(耳付き冠頭)をはずし、さらに王冠(四つ足替栓)を外すという方法がとられるはず、と推定。なのに<関係者の供述には、ぶどう酒の封かん紙や耳付き冠頭をはずした、あるいは他の者がそのようにするところを目撃した旨の供述が全くみつからない>のだから、事件があった時の宴会では、<普通の開栓が行われたとは到底思われない>と断じた。
 そして、証拠として提出されているシール(封かん紙)がちぎれた状況から、<封かん紙が巻かれたままの未開栓の状態の時に耳付き冠頭を下から上に向けての大きな力が加わって、耳付き冠頭の耳の部分が封かん紙を引き破りながら外れたとみることができる>と推測。
 そこから、裁判官は断定的に次のような結論を導き出す。
<このような耳の部分が封かん紙に覆われたままの状態で、耳の部分と封かん紙を一気にはずすという開栓方法が、通常でないやり方であることは明らかである。このような開栓が宴会の課程で行われたものとは考えがたく、そうだとすれば、それはまさしく毒物混入のために行われた最初の開栓と考えられるのであり、その前に偽装的な開栓があったとはもはや考えられないのである

 帯冠の耳の部分を持ってシールごと一気にはずす開栓が、「通常でないやり方」と決めつける根拠は何もない。けれども、お行儀よくしつけられた裁判官にとっては、シールをきれいにはがしてから、外蓋を外し、それから内蓋をのぞく、という手順をきちんとふまない”がさつ”な者は、殺人犯に見えてしまうらしい。
 
 そもそも、事件のあった宴会の際、問題のぶどう酒の栓を開けた場面での住民たちの供述はコロコロと変わっている。
 当初はIとNという二人の男性が、「自分が開けた」と供述していた。奥西さんが逮捕された後、警察官を交えた「話し合い」が行われ、住民たちの供述が不自然な形で変化していく。I氏は「(自分が開けたのは)清酒であったか、またぶどう酒であったのか、はっきり記憶がありません」と供述を撤回。当初は、Iがぶどう酒を開けたと目撃証言をしていた男性も、「今ようく考えてみますと、そのようなものは見なかったと思います」と証言を変えた。他の人たちの供述も、「話し合い」によって、記憶が整理されるどころか、うやむやになっている。最終的にはNがぶどう酒を開けたことになったようだが、N自身は、過去の供述を撤回した後、開栓状況について一切語っていない。むしろ、このことの異常性を裁判官は考えるべきだ。
 しかも、このような供述の変遷は、事件の重要な場面でしばしば見られる。変遷は、決まって奥西犯人説を補強する形で行われる。その不自然さから、供述の変遷が捜査機関の誘導や強制によるものであることは明らかで、第一審の津地裁の裁判官たちは、<検察官のなみなみならぬ努力の所産>と皮肉をこめて批判したほどだった。 
 ところが、今回の名古屋高裁刑事第2部の裁判官たちは、そういう部分には目を向けず、住民たちが封かん紙を破る場面を供述していないという1点だけをつまみ食いし、宴会が始まる前に「通常でないやり方」で開栓をした犯人によって封かん紙は破られていた、と決めつけた。
 
 ちなみに、証拠として出されている王冠は公民館の押し入れの奥から、外側の帯冠は火鉢の灰の中から発見されたもの。公民館からは他にも王冠類がたくさん見つかっており、提出されている王冠が、犯行に使われたぶどう酒の蓋だと断定できる裏付けはない。なのになぜか、これが問題のぶどう酒の蓋だ、という前提で捜査も裁判も進められている。
 他の蓋類も検察官の元に保管されているが、なぜか検察側はそうした証拠類を隠したまま出そうとしない。
 
 今回の決定は、科学的な証明よりも裁判官の「奥西を犯人とする」という信念が優先している。それが顕著なのがポイント(3)についての判断だ。
 問題となっている不純物はトリエチルピルホスフェートと呼ばれる物質で、これは加水分解の速度がTEPPより遅いことは、やはり裁判所も渋々ながら認めつつ、次のように推測する。
<トリエチルピルホスフェートについても、徐々にではあるがそれなりの速度で加水分解を起こすことが認められるのであるから、経過時間、その時の気象状況等々の条件如何によって、TEPPが検出されていた段階においても、トリエチルピルホスフェートがその検出限界を下回り検出されなくなるということもあり得ないことではないと考えられる

 ウサギはカメより速く走るが、条件次第でカメが勝つことだってあるじゃないか、と言わんばかりである。
 しかしそれを言うなら、どういう条件が揃えばカメがウサギに勝つのか、つまりどういう条件下でトリエチルピルホスフェートの方がTEPPより速く加水分解してしまうのかを明らかにし、事件の時にその条件が満たされていたかどうかを検証しなければならない。なのに、そういう科学的な手続きを一切抜きに、この裁判官たちは、「カメ(トリエチルピルホスフェート)の方が先にゴールに着く(加水分解してしまう)こともあり得ないことではない」と平然と言ってのける。
 そして、<本件毒物はニッカリンTであり、トリエチルピルホスフェートもその成分として含まれていたけれども、当時の三重県衛生研究所の試験によっては、それを検出することができなかったと考えることも十分可能といわなければならない>と、不純物を検出できなかったのは、当時の技術レベルの低さのせいにしてしまうのだ。
 
 そのうえで、捜査段階での奥西さんの自白を「信用性の高いもの」と断定。その自白の中に、ニッカリンTを使ったとあることから、犯行に使われたのはニッカリンTとする有罪判決を全面的に支持した。
 弁護側から提出された科学鑑定と検察側が行った科学鑑定を比較し、どちらが信頼性が高いかを検討するのではない。前者の信頼性を、裁判官の願望が混じった推測によってつぶし、結局は自白によって判断するのだ。
 名古屋高裁刑事2部の3裁判官にとっては、自白は科学的な鑑定を上回る「証拠の王」であるらしい。次のように断じている。
<当然極刑が予想される重大殺人事件であり、いくら、その場の苦痛から逃れたいと考えたとしても、そう易々とうその自白をするとは考えにくい

 しかし、これまで、冤罪であることが明らかになったいくつもの事件から分かるように、捜査機関の無理な取り調べによって嘘の自白が作られたケースはいくらでもある。名古屋高裁刑事2部の裁判官たちは、そうした過去の歴史から全然学んでいない。

 私がかつて新聞社に勤務していた頃に取材した事件で、こんな事件があった。
 横浜市の団地の一室で、ある朝主婦が遺体でみつかった。家族は夫と中学生の息子。警察は不審死として遺体を解剖した。若い法医学者は、遺体の鎖骨付近に内出血があることから、首を絞めて殺害したと断定。警察が夫を追及したところ、殺害を自白したので逮捕し、殺人罪で起訴した。
 しかし、夫は裁判で全面否認。弁護側の立証によると、実はこの主婦は、いつ亡くなってもおかしくないほど重い心臓病にかかっており、血液を固まりにくくする薬を飲んでいるために、ちょっとした力でも出血しやすい状況になっていた。内出血の位置は首を絞めて殺害するには下過ぎ、夫が肩をもんでやった際に起きたものと考えられた。検察側も、死因は扼殺によるものとする鑑定を出したが、裁判所は弁護側の主張を認めて無罪とした。
そして、検察側は控訴もせずに、その判決を受け入れた。
 この事件では、夫は逮捕前の早い段階で「自白」をした。その理由を、彼は「お前がやったのではければ、息子だ。息子を厳しく追及する」と捜査員に言われたためだと語っていた。
 第3者が考えれば、逮捕もされてないのに、嘘の「自白」をするはずがないと思ってしまいがちだが、当事者の心境は、机の上で書類を読んでいるだけでは、なかなか分かるものではない。この横浜のケースにしても、「いつかは」と覚悟はしていても、妻が亡くなり、それが殺人だと決めつけられて動転しているところに、「否認するなら息子を厳しく調べる」と言われてパニックとなり、息子を守るには、自分がやったことにするしかないと思い詰めて、嘘の「自白」をしてしまったのだった。
 人間は、とりわけ動揺している時には、現在の辛い状況から逃れようと、案外簡単に嘘の「自白」をしてしまう。これまでの多くの冤罪事件から、人にはこういう弱さがあるから、自白偏重の捜査や裁判は危険だと、私たちは学んできたはずだった。
 ところが、名古屋高裁刑事2部の裁判官たちは、そういう学習をしてこなかったようだ。彼らは、奥西犯人説を補強するためには、いくらでも想像力をたくましくするくせに、急に妻を失ったショックに加えて、警察から事件とは違う事柄も追及されてすっかり混乱した彼の心境については、まったく思いを巡らそうとはしない。
 そして、捜査段階での「自白」を支えに、それと合致する証拠をつまみ食いし、矛盾するものは無視するか、裁判官の推測によって潰してしまう――裁判官がこういう態度では、どのような証明をしようと、真犯人を連れてきて新たな自白でもさせない限り、再審の扉を開けることは不可能だ。
 今回の名古屋高裁刑事2部の決定は、事実上再審の制度を否定するものにほかならない。

 この裁判官たちにとっては、事件の真相より、奥西勝という一人の老人の命より、先輩裁判官たちが出した確定判決の方が、守る価値のあるものなのだろう。
 決定書から、そんな裁判官の価値観がイヤと言うほど伝わってきて、私は大いに失望した。
 これまでも、「裁判所は、帝銀事件のように、再審を開くこともなく、刑の執行もしないまま、奥西さんが獄中で亡くなるのを待っているのではないか」と思ったことは何度もあった。
 けれども、前回の再審開始決定によって、裁判所に対する信頼感を取り戻しかけた後だっただけに、今回の決定がもたらした失望感は大きい。
 名張事件では、弁護側は最高裁に特別抗告を行う。その提出期限は1月4日。
「まだ最高裁がある」――かつて冤罪の被害者が、高裁で死刑を受けたあとに、こう叫んだ。
 最高裁こそ、虚心坦懐に証拠を見て欲しいと、祈るような気持ちだ。
 けれども、奥西さんに残された時間は、もうあまりない。
  
 それにしても、と思う。
 こんなふうに、人の命よりも真相解明よりも、確定判決を維持することを優先する裁判官たちに、再審請求の手続きを任せていていいのか?
 数年のうちに、国民が刑事裁判に参加する裁判員制度がスタートすることになっている。私は、予定された制度には必ずしも賛成ではない。事件の衝撃が生々しい時期に、地元の人たちによって裁く裁判は、ともすると感情に流れる可能性を否定できないからだ。けれども、今回の名古屋高裁第2部に見られるように、市民感覚から逸脱した特異な価値観の支配する世界に生息する裁判官だけに裁判を任せてはおけない状況にあることも確かだ(この問題については、いずれ改めて考えをまとめるつもりだ)。
 特に、事件から年月が経過し、生々しい衝撃が薄らいでいる再審請求の場合は、むしろ先輩裁判官たちへの配慮や裁判所の面子といったことが気になる職業裁判官よりも、余計なしがらみのない一般国民の方が、まともな判断をできるのではないだろうか。
 裁判員制度の実施を急ぐより、まずは国民が再審請求を判断する「再審審査会」を作るべきだ
 再審制度を否定する職業裁判官に、もう再審を任せておくことはできない。


 

 

 

 

 

 

事件の経緯など、詳細は拙著(新風舎)をご参照下さると幸いです。

 

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