これが”任意”だって?!
2007年01月24日
「任意」――この言葉を辞書で引くと、最初にこういう意味が出てくる。
<心のままにすること。その人の自由意思にまかせること>(広辞苑より)
それを前提に富山県警による誤認逮捕の報道を読んでいくと、妙な気分になってくる。
逮捕されたのは、当時34歳のタクシー運転手。2003年3月民家に土足で押し入り留守番をしていた少女(16)にナイフを突きつけ暴行しようとした強姦未遂容疑で同年4月15日に逮捕され、さらに同年5月、別の少女に対する強姦容疑で再逮捕され、裁判で懲役3年の実刑判決。2年9ヵ月間服役した。
<県警によると、目撃証言をもとに作成した似顔絵などから、この男性が浮上。被害者に写真を見せ、遠目に男性を確認させたところ「似ている」と証言したため、任意で事情を聴いた。男性は任意の取り調べに当初は容疑を否認したが、3日目に容疑を認めたため、客観的な証拠がないまま逮捕した。>(1月20日付朝日新聞)
男性と事件を結びつける客観的な証拠はないどころか、犯行時間帯には一人暮らしだった男性の自宅の固定電話からの発信記録もあった。2つの事件の現場に残された靴跡はサイズが28センチだったのに、男性が普段履いていた靴は24.5センチ。まったく大きさが違う。男性は、”任意同行”される際に、兄に「身に覚えがない」と語っていたそうだ。
にもかかわらず、男性の「自由意思」にまかせて事情を聴いたところ、3日間も本人の「自由意思」で出頭し、取調官が強い調子で迫ったわけでもないのに、本人の「自由意思」で嘘の自白をした、と富山県警はいうのだ。それも、強姦のような破廉恥な犯罪を。そんなことが、ありうるのか?!
被害者の証言を元にした似顔絵に似ていることが、逮捕の最大の決め手になったらしい。その絵を突きつけながら、犯人と決めつけ、自白を迫ったところ、男性は根負けして、自分がやったわけでもない罪を認めた、というのが真相ではないだろうか。
男性の家での捜索では28センチの靴は見つかっていないが、その理由を男性は「靴を燃やした」と”任意”で説明したという。にわかには信じがたい。それよりも、ありもしない靴のありかを追及され、その追及をかわすために苦し紛れに「燃やした」と口走った、と考える方がよほど自然だ。
このような男性の弁明をみていると、「取り調べでは威迫などの問題はない」(山崎次平・富山県警捜査一課長)どころか、嘘の自白さえしてしまうほど厳しい取り調べだったことがうかがえる。
しかも富山県警は、誤認逮捕についての発表をする際、当初「テレビカメラやカメラの撮影を認めない」と通告。地元の司法記者クラブが抗議をし、予定より37分も遅れて、ようやく撮影を認めた会見が行われた。カメラを入れなければ、テレビは報道のしようがないし、新聞も目立たない記事になる。こういう小賢しい計算をしていて、果たして本当に反省しているのだろうか。
警察ばかりではない。男性を起訴した富山地検は、「県警が作成した似顔絵がよく似ていたうえ、一貫して犯行を認めていたため、犯人と信じ込んでしまった」と説明したが、後に送検時の検察官による弁解録取の際には、男性は容疑を否認していたことが、明らかになった。にもかかわらず、証拠の吟味を怠ったのは、警察段階での自白のだからと、ハナから犯人と決めてかかっていたからだろう。
さらに裁判所。逮捕された後に勾留が決まる手続きの際、男性は裁判官の前でやはり容疑を否認している。それでも、裁判官は勾留の決定を下し、男性は身柄を拘束され、取り調べを受け続けることになった。最近の裁判所は、逮捕状や勾留状を出す時のチェックが甘く、棄却されることはほとんどなくなっていると指摘されている。せいぜい書類の種類と形式が揃っているかを確認する形式的な審査しかなされず、ほとんど警察や検察が請求するがままに発行する、令状自動発行機と化しているようだ。今回、裁判所はコメントを発することもなく、知らん顔を決め込んでいるが、本来、もっとも責任を感じてもらわなければならないのは、逮捕、勾留の許可を出し、実刑判決を言い渡した裁判官である。それがだんまりを続けているというのは、あまりにも無責任だ。
警察に本当のことを言っても受け入れてもらえない。検察官や裁判官からも犯人だと決めつけられ、男性は「本当のことを言っても受け入れてもらえない」と絶望したのではないか。そして、「裁判で争っても、むしろ刑が長くなるだけ」と信じ込まされ、公判でも無実を訴えなかったのだろう。
警察、検察、裁判所と揃って、本来期待されている職責を果たしていないのだ。弁護人もいったい何をやっていたのか、という気がする。検察側が十分な証拠開示をしていなかったのかもしれない。それにしても、2回逮捕されているので取り調べ期間は40日以上になっただろうが、その間面会したのは送検前と起訴前の2回だけ、というのはいかがなものだろう。すっかり絶望し、人間不信に陥っている人が、たった2回の面会では初対面の人を信頼し、本当のことを語ろうという気持ちにならなかったとしても、不思議ではない。これでも、弁護人の職責を十分果たしたことになるのだろうか。
警察もマスコミも、安易に「任意」という言葉を使うけれど、警察用語の”任意”は、国語辞典の「任意」とはだいぶ意味が違う。捜査対象となっている者の「自由意思」など許されない場合が多い。「任意同行」「任意で事情を聴く」などという言い回しが出てきても、当人が自由な判断で出頭し、自分の考えで取調室にとどまり、強いられることなく自らの意思で事実を語った、などとは考えない方がよい。たいていは、警察の言う通りにしなければ逮捕されたり、様々な圧力を受けて、仕方なく出頭し、帰るに帰れず、今回のように事実に反する”自白”がなされることもある。
このことを、裁判官にはよくよく理解してもらいたい。
しかし現実は、ひとたび虚偽の自白が作られれば、それを覆すのは容易ではない。公判になってから翻しても、なかなかその主張は容れられない。多くの場合、裁判所は法廷での本人のナマの供述より、密室で取られた、それも本人が直接書いたわけでもない調書を信用したがる。調書は”任意性”が認められ、内容にについても”信用性”があると判断されて、有罪方向の証拠とされる。裁判官たちは、無罪を証明する証拠や証言でも提出されない限り、無理な取り調べで嘘の自白が強いられた、とは考えない。捜査段階での供述は”任意”なのだからとか、「不利益だと分かっていて、嘘の自白をすることは考えられない」などという理屈で、無実の訴えを退けてしまいがちだ。そして、「自白があるんだから」と、証拠のうち無罪をうかがわせる部分には目をつぶり、有罪を補強するものだけをつないで、有罪のストーリーを作る。
昨年末、名張毒ブドウ酒事件の再審開始決定をひっくり返した名古屋高裁の決定も、まさにそういう組み立てだった。今回の富山の事件は、不幸中の幸いで、真犯人が別の事件で捕まり、問題の2つの事件についても自白したために、男性の無罪は証明された。しかし、いつも真犯人が現れてくれるとは限らない。おそらくは、他にも犯人が出てこないまま、犯人とされ続けている無辜が少なくないだろう。そして、名張事件のように、真犯人の新たな自白が得られずにいれば、再審の扉は開かれず、警察の誤った捜査、検察の誤った起訴、裁判所の誤った判断が改められずにいる。
いつまで経っても警察も検察も裁判所も自白に頼る風潮が改まらない。その中で、冤罪の被害者を少しでも減らすには、最低限、捜査段階での容疑者に対する取り調べの全課程を、”任意”の段階から録音や録画で記録をするくらいはすべきだ。
公判段階で本人が「無理な取り調べがあった」と訴えた場合は、テープやビデオをチェックすればよい。延々と捜査員の証人尋問をやる必要はなくなるばかりか、そもそも捜査機関が自白を強制することにも抑制的になるだろう。”任意”の衣をかぶった強制的な供述は減れば、今回のような誤認逮捕の防止につながる。それだけではない。真犯人が公判を混乱させて裁判の長期化をもくろんだり、あわよくば無罪を勝ち取ろうとして、本当は無理な取り調べはないのに、自白の強要があったように主張する戦術をとることもできなくなる、という効果もある。
第2は、こうした捜査上の問題が明らかになった場合、警察組織外の機関が原因究明のための調査を行い、その助言によって知事が関係者の処分を決められるような制度を確立すること。できれば、警察の調査をきちんと行えるような人を県知事が人選するのがいいと思うが、公安委員会が行うという方法もあるだろう(ただし、裏金疑惑の時にも、公安委員会は期待されたような役割を果たしているとは言い難いので、どの程度厳正な調査や処分ができるのか疑問だ)。警察の問題はいつも警察内部だけで処理するので、どこに問題があったのかも明らかにならないし、その問題点を他府県の警察が共有の課題とすることがない。
警察をいつまでも外部の目が届かない密室にしておいては、今回のような不幸な事件は繰り返されてしまう。捜査の課程や組織をもう少し透明化することが必要だ。
<心のままにすること。その人の自由意思にまかせること>(広辞苑より)
それを前提に富山県警による誤認逮捕の報道を読んでいくと、妙な気分になってくる。
逮捕されたのは、当時34歳のタクシー運転手。2003年3月民家に土足で押し入り留守番をしていた少女(16)にナイフを突きつけ暴行しようとした強姦未遂容疑で同年4月15日に逮捕され、さらに同年5月、別の少女に対する強姦容疑で再逮捕され、裁判で懲役3年の実刑判決。2年9ヵ月間服役した。
<県警によると、目撃証言をもとに作成した似顔絵などから、この男性が浮上。被害者に写真を見せ、遠目に男性を確認させたところ「似ている」と証言したため、任意で事情を聴いた。男性は任意の取り調べに当初は容疑を否認したが、3日目に容疑を認めたため、客観的な証拠がないまま逮捕した。>(1月20日付朝日新聞)
男性と事件を結びつける客観的な証拠はないどころか、犯行時間帯には一人暮らしだった男性の自宅の固定電話からの発信記録もあった。2つの事件の現場に残された靴跡はサイズが28センチだったのに、男性が普段履いていた靴は24.5センチ。まったく大きさが違う。男性は、”任意同行”される際に、兄に「身に覚えがない」と語っていたそうだ。
にもかかわらず、男性の「自由意思」にまかせて事情を聴いたところ、3日間も本人の「自由意思」で出頭し、取調官が強い調子で迫ったわけでもないのに、本人の「自由意思」で嘘の自白をした、と富山県警はいうのだ。それも、強姦のような破廉恥な犯罪を。そんなことが、ありうるのか?!
被害者の証言を元にした似顔絵に似ていることが、逮捕の最大の決め手になったらしい。その絵を突きつけながら、犯人と決めつけ、自白を迫ったところ、男性は根負けして、自分がやったわけでもない罪を認めた、というのが真相ではないだろうか。
男性の家での捜索では28センチの靴は見つかっていないが、その理由を男性は「靴を燃やした」と”任意”で説明したという。にわかには信じがたい。それよりも、ありもしない靴のありかを追及され、その追及をかわすために苦し紛れに「燃やした」と口走った、と考える方がよほど自然だ。
このような男性の弁明をみていると、「取り調べでは威迫などの問題はない」(山崎次平・富山県警捜査一課長)どころか、嘘の自白さえしてしまうほど厳しい取り調べだったことがうかがえる。
しかも富山県警は、誤認逮捕についての発表をする際、当初「テレビカメラやカメラの撮影を認めない」と通告。地元の司法記者クラブが抗議をし、予定より37分も遅れて、ようやく撮影を認めた会見が行われた。カメラを入れなければ、テレビは報道のしようがないし、新聞も目立たない記事になる。こういう小賢しい計算をしていて、果たして本当に反省しているのだろうか。
警察ばかりではない。男性を起訴した富山地検は、「県警が作成した似顔絵がよく似ていたうえ、一貫して犯行を認めていたため、犯人と信じ込んでしまった」と説明したが、後に送検時の検察官による弁解録取の際には、男性は容疑を否認していたことが、明らかになった。にもかかわらず、証拠の吟味を怠ったのは、警察段階での自白のだからと、ハナから犯人と決めてかかっていたからだろう。
さらに裁判所。逮捕された後に勾留が決まる手続きの際、男性は裁判官の前でやはり容疑を否認している。それでも、裁判官は勾留の決定を下し、男性は身柄を拘束され、取り調べを受け続けることになった。最近の裁判所は、逮捕状や勾留状を出す時のチェックが甘く、棄却されることはほとんどなくなっていると指摘されている。せいぜい書類の種類と形式が揃っているかを確認する形式的な審査しかなされず、ほとんど警察や検察が請求するがままに発行する、令状自動発行機と化しているようだ。今回、裁判所はコメントを発することもなく、知らん顔を決め込んでいるが、本来、もっとも責任を感じてもらわなければならないのは、逮捕、勾留の許可を出し、実刑判決を言い渡した裁判官である。それがだんまりを続けているというのは、あまりにも無責任だ。
警察に本当のことを言っても受け入れてもらえない。検察官や裁判官からも犯人だと決めつけられ、男性は「本当のことを言っても受け入れてもらえない」と絶望したのではないか。そして、「裁判で争っても、むしろ刑が長くなるだけ」と信じ込まされ、公判でも無実を訴えなかったのだろう。
警察、検察、裁判所と揃って、本来期待されている職責を果たしていないのだ。弁護人もいったい何をやっていたのか、という気がする。検察側が十分な証拠開示をしていなかったのかもしれない。それにしても、2回逮捕されているので取り調べ期間は40日以上になっただろうが、その間面会したのは送検前と起訴前の2回だけ、というのはいかがなものだろう。すっかり絶望し、人間不信に陥っている人が、たった2回の面会では初対面の人を信頼し、本当のことを語ろうという気持ちにならなかったとしても、不思議ではない。これでも、弁護人の職責を十分果たしたことになるのだろうか。
警察もマスコミも、安易に「任意」という言葉を使うけれど、警察用語の”任意”は、国語辞典の「任意」とはだいぶ意味が違う。捜査対象となっている者の「自由意思」など許されない場合が多い。「任意同行」「任意で事情を聴く」などという言い回しが出てきても、当人が自由な判断で出頭し、自分の考えで取調室にとどまり、強いられることなく自らの意思で事実を語った、などとは考えない方がよい。たいていは、警察の言う通りにしなければ逮捕されたり、様々な圧力を受けて、仕方なく出頭し、帰るに帰れず、今回のように事実に反する”自白”がなされることもある。
このことを、裁判官にはよくよく理解してもらいたい。
しかし現実は、ひとたび虚偽の自白が作られれば、それを覆すのは容易ではない。公判になってから翻しても、なかなかその主張は容れられない。多くの場合、裁判所は法廷での本人のナマの供述より、密室で取られた、それも本人が直接書いたわけでもない調書を信用したがる。調書は”任意性”が認められ、内容にについても”信用性”があると判断されて、有罪方向の証拠とされる。裁判官たちは、無罪を証明する証拠や証言でも提出されない限り、無理な取り調べで嘘の自白が強いられた、とは考えない。捜査段階での供述は”任意”なのだからとか、「不利益だと分かっていて、嘘の自白をすることは考えられない」などという理屈で、無実の訴えを退けてしまいがちだ。そして、「自白があるんだから」と、証拠のうち無罪をうかがわせる部分には目をつぶり、有罪を補強するものだけをつないで、有罪のストーリーを作る。
昨年末、名張毒ブドウ酒事件の再審開始決定をひっくり返した名古屋高裁の決定も、まさにそういう組み立てだった。今回の富山の事件は、不幸中の幸いで、真犯人が別の事件で捕まり、問題の2つの事件についても自白したために、男性の無罪は証明された。しかし、いつも真犯人が現れてくれるとは限らない。おそらくは、他にも犯人が出てこないまま、犯人とされ続けている無辜が少なくないだろう。そして、名張事件のように、真犯人の新たな自白が得られずにいれば、再審の扉は開かれず、警察の誤った捜査、検察の誤った起訴、裁判所の誤った判断が改められずにいる。
いつまで経っても警察も検察も裁判所も自白に頼る風潮が改まらない。その中で、冤罪の被害者を少しでも減らすには、最低限、捜査段階での容疑者に対する取り調べの全課程を、”任意”の段階から録音や録画で記録をするくらいはすべきだ。
公判段階で本人が「無理な取り調べがあった」と訴えた場合は、テープやビデオをチェックすればよい。延々と捜査員の証人尋問をやる必要はなくなるばかりか、そもそも捜査機関が自白を強制することにも抑制的になるだろう。”任意”の衣をかぶった強制的な供述は減れば、今回のような誤認逮捕の防止につながる。それだけではない。真犯人が公判を混乱させて裁判の長期化をもくろんだり、あわよくば無罪を勝ち取ろうとして、本当は無理な取り調べはないのに、自白の強要があったように主張する戦術をとることもできなくなる、という効果もある。
第2は、こうした捜査上の問題が明らかになった場合、警察組織外の機関が原因究明のための調査を行い、その助言によって知事が関係者の処分を決められるような制度を確立すること。できれば、警察の調査をきちんと行えるような人を県知事が人選するのがいいと思うが、公安委員会が行うという方法もあるだろう(ただし、裏金疑惑の時にも、公安委員会は期待されたような役割を果たしているとは言い難いので、どの程度厳正な調査や処分ができるのか疑問だ)。警察の問題はいつも警察内部だけで処理するので、どこに問題があったのかも明らかにならないし、その問題点を他府県の警察が共有の課題とすることがない。
警察をいつまでも外部の目が届かない密室にしておいては、今回のような不幸な事件は繰り返されてしまう。捜査の課程や組織をもう少し透明化することが必要だ。