周防監督/再審拒否の名張事件・高裁決定を大批判

2007年02月02日

「この決定は、本当に恥ずかしい」
 上映中の映画《それでもボクはやってない》の周防正行監督が2月1日、海外特派員協会での記者会見で、昨年暮れに再審開始を取り消した、名古屋高裁刑事第2部の決定について、厳しく批判しました。
 周防監督は、私(江川)の「再審の問題についてはどう思いますか」という質問に答えて、次のように述べたのでした。
 
「再審事件についての質問は、たぶん先日の毒ぶどう酒事件のことが(念頭に)あるんじゃないかと思うんですが、私も驚きました。少なくとも1つの裁判体が、その高裁の3人の裁判官が再審の決定を一度は下しておきながら、同じ裁判所の別の裁判体が再審を認めない。再審請求においても『疑わしきは被告人の利益に』という刑事裁判の原則は適用されるということだったと思うんですが、少なくとも、同じ裁判所の(刑事第1部の)裁判官が『これは変だ』と判断をした時点で、もう「(原判決は)疑わしい」と考えるのが、一般的な人の考え方だとボクは思う。裁判官がそう考えないんだとしたら、裁判官の常識が、日本で暮らしているボクにも、とても信じられない。白鳥決定以降、日本の裁判の基本の考え方だと思っていた、再審請求でも『疑わしきは被告人の利益に』という原則を実践するのであれば、当然再審開始決定が出るはず。この決定は、本当に恥ずかしい」
 海外特派員協会では、日本語には必ず英語の通訳がつくのですが、周防監督は横にいる通訳の存在も忘れ、日本の裁判官の問題点について熱く語り続けました。
「自らの罪を早い段階で認め、認めたうえで、どうしたら被害を受けた人を救済できるかっていうのを、ホントにやらない人々の集まりなんだって。判決要旨とか、そういうものを読むたびに、本当に悲しくなる」
 こうした問題を語る時に熱くなるのは、映画を作るための取材で、冤罪で苦しんでいる人たちと会い、彼らの思いを知ったからだそうです。
「こういう質問には、なるべく感情的にならないように(感情を)抑えなければいけない、抑えなければいけないと思うんですけど……。ボクが作った映画も、ああいう形で裁判所批判を貫いたのは、多くの裁判で苦しんでいる人たちに会って話を聞いて、その苦しみが分かったからです。なので、いささか感情的になってしまうのは、お許し下さい。本当に、誤りを認めることに躊躇する人たちがあまりに多いのが、悲しい現実です。ただ、もちろん、これは悲しい現実だと言って終わるわけにはいかないので、なんとかしなければ、と思うわけです」
 

 私は、周防監督にもう1つ質問をしました。裁判員制度について、です。
 今の裁判所を変えるために、国民が刑事裁判の審理に加わるこの制度は、実に画期的と言えます。その一方で、事件の衝撃が生々しい時期に、マスコミを通じて様々な情報が流れた後に、一般人が裁くという裁判は感情に流れ、冤罪が増えるのではないか、という危惧もあります。
 周防監督は、「これはいろいろな危険もはらんでいます」としながらも、「やっぱり司法改革のチャンスだってとらえたい」とポジティヴに受け止めていました。
「1つ、明らかに変わらざるをえないのは、法廷で使われる言葉が、一般人にも分かる言葉に変わる。今は、日本の裁判は公開が原則と言われていますが、傍聴席に座っていて、ただ裁判を見ているだけでは、何が行われているか分かりません。それは、裁判官と弁護士と検察官だけに分かる言葉で裁判が進行しているからです。そういう裁判に一般の人が加わることで、裁判の進行も一般の人に理解できる言葉に変えざるを得ない。傍聴席に座っていても、今までよりも分かりやすい裁判が実現されるでしょう。(本当の意味での)裁判の公開に一歩近づくことができる」「法曹三者は、どうしたら誤解なく一般の人たちに伝えることができるかを考えることで、今まで自分たちが使っていた言葉を考え直さなければならない。使う言葉が変われば考え方に影響が出るのは、皆さんもご存じの通り。裁判官も一般の人に分かる言葉で判決文を書かなければならない。これは、何か変化が起こらざるをえない、ということだと思うので、そういうことにはすごく期待がある」
 私は最近、裁判員制度のマイナス面がとても気になってきているのですが、確かに「使う言葉が変われば考え方も変わる」という観点から考えると、大きなプラス面がありそうです。
  
 周防監督が、裁判の取材を始めたのは2002年暮れ。以来、取材を重ねる中で、驚いたことがたくさんあり、日本の刑事裁判のシステムに問題があると感じた、と言います。
 そして、「これを撮るのは、映画監督としての使命感というより、日本の社会の一人として、不正があることへの怒り、いわば正義感が映画を作る衝動になった」「この(問題ある)事実を知ったのに、明日から知らんふりをして生きることができなかった」と、この映画を作る動機を語りました。
 私は、この周防監督の言葉に、とても共感しました。というのは、私自身、名張毒ぶどう酒事件についての著書『名張毒ぶどう酒殺人事件・6人目の犠牲者』の後書きで、取材や執筆の動機をこんなふうに書いたことがあるからです。
<この実態を知ってしまった以上、私も逃げられない、と思った。ちょっぴり堅苦しい表現を使えば、知ってしまった者の責任というのだろうか>
 被告人やその人たちを支える家族の様子も取材をした周防監督ですが、映画を作るうえでは、冤罪と戦う人々の感動的な物語ではなく、刑事司法のシステム、そして裁判官の問題に焦点を当てました。今回の作品では、冤罪が生まれる様々な要因が、実に分かりやすく描かれています。けれども、刑事裁判について感じたり問題意識を持ったことについて描ききれたわけではない、と周防監督は考えているようで、きっぱりとこう言い切りました。
「ボクは、この映画一本で、日本の刑事裁判について描くのは終わりであるとは考えておりません」
 名張毒ぶどう酒事件について、もっと興味を持っていただけないかなあという気持ちもあって、会見が始まる前、会場に同行されていたスタッフの方に、拙著をお渡ししたのでした。
 でも、私の質問にすぐ名張事件を連想してくださったということは、周防監督はすでにこの本を読んでくださっていたのかもしれません。
 私の質問に答える時に、「江川さんのご本は熟読しました」と冒頭でおっしゃっり、少しは参考になったのか「最初にお礼を言いたい」と言って下さったのには、びっくりし大感激もしたのでした。
 それを聞いた記者の方たちが拍手をしてくださったのに、私はすっかりどぎまぎしてしまって、なんの反応もできませんでした。 
 それから、会見の席で配られた映画の広報用パンフレットには挙げられた「スタッフのオススメ本」20冊の中に拙著『冤罪の構図』(新風舎)が入っていたのも、うれしい驚きでした。
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