愛知・発砲立てこもり事件に思う
2007年05月19日
職業に貴賎はない、というが、私は違うと思う。
人の弱みにつけ込む高利貸しなど、私にしてみれば、賤しい職業の筆頭である。かつては、そうした職の人たちも己の行為の賤しさをわきまえていたのか、社会の目が厳しかったのか、その営業活動は、どちらかというとひっそり行われていたような気がする。いわば裏街道を行く立場だった。ところが最近は、消費者金融などと名前を変え、駅の真ん前に堂々と看板を掲げ、テレビにCMを出し、立場をわきまえずにおおっぴらに表街道を闊歩している。しかし、どんなに明るいイメージを打ちだそうと、その本質的な賤しさが減殺されるものではない。
では、貴い方の仕事はというと、私の頭に真っ先に浮かぶのが消防士だ。火災の現場にかけつけ、燃えさかる炎に対峙し、建物の中に取り残されている者を救うために中に飛び込んでいく。もちろん、やみくもに突入するわけではなく、自らの身の安全を守りながら人を救出するための訓練を日夜積んでいるし、その時々の状況判断もなされている。それでも、救出の最中に建物が倒壊するなどして殉職者が出ることがある。まさに自らの命を危険にさらして人を助ける仕事だ。私は、サイレンを鳴らして駆け抜ける消防車を見るたびに、「どうかご無事で」と祈りながら、心の中で手を合わせている。
今回の愛知県での発砲・立てこもり事件を、私は消防車を見送る時と同じような気持ちで見守っていた。特に、犯人の元妻が自力で逃げ出し途中で力尽きた時、駆け寄って彼女を背負った警察官と、盾をかざしてその2人を守っている同僚たちの姿が映し出されるたびに、無事だったという結果は分かっているにもかかわらず、思わず手を合わせたくなった。
警察官の制服を見ても、日頃はそんな気持ちになれない。なにしろ冤罪事件での捜査や裏金を隠蔽し続ける体質など様々な問題があり、不祥事も次々に起きる。けれども、今回のように自らを危険にさらして人を助けようとする場面を見聞きすると、現場にいる警察官の多くは、人助けをする仕事としてこの職を志し、誠実に職務についているのだろう、と思う。踏切内に立ち入った女性を助けようとして犠牲になった宮本警部のような交番のお巡りさんもいるし、雪山で遭難者の救出に向かう山岳遭難救助隊の警察官たちもそうだ。そして、犠牲になった林一歩警部(事件当時は巡査部長。二級特進)も……。
殉職後、林警部のご家族が(お父様だったと思うが)、「人を助ける仕事なのだから、身内が助かったのは良かった。ご苦労さまと言ってやりたい」という趣旨の発言をされていた。せめて、そのことで納得したいと、自らを言い聞かせるような口ぶりだったが、大事な息子を奪われた悲しみがいかばかりだろう。林警部の娘さんは、まだ生後10ヶ月という。本当だったら、これからお父さんと楽しい時をたくさん過ごせたはずなのに、その未来はすべて奪われてしまった。そして奥様もまだ24歳。これからの長い人生を共に歩むはずだったパートナーを突然奪い取られた。
人を殺すということは、被害者のみならず、その周りの人たちの未来をも破壊する行為なのだと改めて思う。今はただ、林警部のご冥福を、そしてご家族に少しでも慰めがもたらされるようにと、祈るばかりだ。
このような殉職者を出したうえに事件解決までに29時間余りを要したことで、警察への批判の声も出ている。
ただ、今の時点で感情的な非難を浴びせるのはどうなのかな、と思う。特に、毎日新聞の社説には、《ふがいなかった警察の対応》というタイトルも含めて違和感を抱いた。
<負傷した警察官が地面に伏し、血を流してうめくのを目の当たりにしながら、5時間余りも救出できなかったとはショックである。平素から危険な任務に就かせているのに、救助が遅れるようでは上司の威令は行き届かない。多くの市民も警察官の苦痛を思い、自分の姿を重ね合わせながら、いざという時に警察に見殺しにされまいか、と不信を募らせたことだろう。人質も救出したのではなく、自ら脱出した。警察にとって手痛い失態と言えよう>
<事件ごとに状況判断は欠かせないが、いたずらに時間を費やさぬように心がけるべきだ。ましてや指揮官が優柔不断であってはならない>
う〜ん。
もし警察が「早期の解決」を焦って突入し、銃撃戦となって人質が傷ついたり亡くなったりする事態になっていれば、この社説はなんと書いていただろうか。おそらく、同じように感情をほとばしらせ、警察の「拙速な対応」や「蛮勇」を非難したに違いない、という気がする。
指揮官の判断が誤っていたというよほどの確証があるならともかく、勇猛果敢な突撃を奨励するような感情的で単純な論調を、報道機関の、それも冷静に物事を分析し提言すべき立場の社説で展開するというのは、いかがなものだろう。例えば、人質が脱出したのは、警察がFM放送局を説得し、DJが犯人の長話を聞いてやっている間の出来事だった、という。そうやって、外部の協力を得ながら、犯人の気持ちをよそにそらす戦法をとったことを「失態」と非難するのは、言い過ぎではないか。
近隣の人たちが不安な思いで過ごした一夜を考えれば、「早期の解決」が望ましい。けれども、持久戦に持ち込むのは「優柔不断」と同義語なのだろうか。犠牲者を出さぬように、そして犯人は必ず生け捕る、という日本の警察が目指してきた原則は、間違っているのだろうか。
犯人を射殺してでも「早期解決」を図るやり方もあろうが、こういう事件の犯人を華々しく死なせてしまうえば、自己顕示の場と自殺の道連れを求めて事件を起こすような輩も出てくるだろう。時間はかかったとしても、極力生け捕りにし、その正体を暴いて社会的なさらし者にすると同時に、動機や銃の入手ルートなど社会が何らかの教訓や情報を引き出す、という方を私は支持したい。
もちろん、今回の事態を招いた原因については、もちろん様々な角度から検証されなければならないし、警察も詳しい説明をするべきだ。
銃を持った相手に対峙する警察官の装備は、今のままで十分なのか。もう少し早く負傷者した警察官を救出できなかった原因は何だったのか。そもそも、銃を利用した事件があまりに多すぎる。国の銃器対策に欠陥があるのではないか……
報道によれば、昨年一年間に警察が押収した真性拳銃は407丁。押収は1995年の1880丁をピークに年々減少している、という。これは、国内で不法に所有されている拳銃の数が減ったわけではなく、むしろ警察の目の届かないところで所持されている銃が増えている、ということなのだろう。警察の捜査能力が低下したのか、あるいは銃を流通させる側の方が巧みになってきているのか、あるいはその両方があいまってのことなのか。
いずれにせよ、住宅街という一般市民の生活の場でこのように銃を使った事件が相次ぐようでは、人々の体感治安は低下する一方だ。日本中から銃を一掃するつもりで、対策を講じる必要がある。そのためにも、今回の事件を起こした大林久という男が、いつどのようにして銃を入手したのか、それをどのように隠していたのかを含めて、きっちりと明らかにしてもらいたい。
さらに、暴力団に対して、担当セクションだけでなく、あらゆる部署を総動員して、厳しい取り締まりを実施すべきだ。この春、うちの近くで暴力団関係者の葬式があった際、黒塗りの車が結集し、路上を半分塞いで他の交通を著しく妨げている他、歩道にもたむろしていた。警察官はたくさんいるのに、車を移動させるわけでもなく、むしろ暴力団を警備してやっているように見えた。そういう光景を見せられれば、警察は本気で暴力団対策をやっているとは思えなくなる。少なくとも、地下鉄サリン事件があった後のオウム真理教に対する対応に比べれば、暴力団対策ははなはだ本気度に欠ける、と言わざるをえない。何も別件逮捕を奨励するわけではないが、一般市民以上にあらゆる法を厳格に適用するという姿勢は必要ではないか。暴力団の力をそいでいけば、銃器の流通の担い手が減るわけで、警察はこの際、暴力団を根絶するつもりで対応をしていただきたい。
そうして銃による犠牲者をなくしていくことが、林警部や伊藤前長崎市長ら、銃によって奪われた命を生かす唯一の道なのだから。
人の弱みにつけ込む高利貸しなど、私にしてみれば、賤しい職業の筆頭である。かつては、そうした職の人たちも己の行為の賤しさをわきまえていたのか、社会の目が厳しかったのか、その営業活動は、どちらかというとひっそり行われていたような気がする。いわば裏街道を行く立場だった。ところが最近は、消費者金融などと名前を変え、駅の真ん前に堂々と看板を掲げ、テレビにCMを出し、立場をわきまえずにおおっぴらに表街道を闊歩している。しかし、どんなに明るいイメージを打ちだそうと、その本質的な賤しさが減殺されるものではない。
では、貴い方の仕事はというと、私の頭に真っ先に浮かぶのが消防士だ。火災の現場にかけつけ、燃えさかる炎に対峙し、建物の中に取り残されている者を救うために中に飛び込んでいく。もちろん、やみくもに突入するわけではなく、自らの身の安全を守りながら人を救出するための訓練を日夜積んでいるし、その時々の状況判断もなされている。それでも、救出の最中に建物が倒壊するなどして殉職者が出ることがある。まさに自らの命を危険にさらして人を助ける仕事だ。私は、サイレンを鳴らして駆け抜ける消防車を見るたびに、「どうかご無事で」と祈りながら、心の中で手を合わせている。
今回の愛知県での発砲・立てこもり事件を、私は消防車を見送る時と同じような気持ちで見守っていた。特に、犯人の元妻が自力で逃げ出し途中で力尽きた時、駆け寄って彼女を背負った警察官と、盾をかざしてその2人を守っている同僚たちの姿が映し出されるたびに、無事だったという結果は分かっているにもかかわらず、思わず手を合わせたくなった。
警察官の制服を見ても、日頃はそんな気持ちになれない。なにしろ冤罪事件での捜査や裏金を隠蔽し続ける体質など様々な問題があり、不祥事も次々に起きる。けれども、今回のように自らを危険にさらして人を助けようとする場面を見聞きすると、現場にいる警察官の多くは、人助けをする仕事としてこの職を志し、誠実に職務についているのだろう、と思う。踏切内に立ち入った女性を助けようとして犠牲になった宮本警部のような交番のお巡りさんもいるし、雪山で遭難者の救出に向かう山岳遭難救助隊の警察官たちもそうだ。そして、犠牲になった林一歩警部(事件当時は巡査部長。二級特進)も……。
殉職後、林警部のご家族が(お父様だったと思うが)、「人を助ける仕事なのだから、身内が助かったのは良かった。ご苦労さまと言ってやりたい」という趣旨の発言をされていた。せめて、そのことで納得したいと、自らを言い聞かせるような口ぶりだったが、大事な息子を奪われた悲しみがいかばかりだろう。林警部の娘さんは、まだ生後10ヶ月という。本当だったら、これからお父さんと楽しい時をたくさん過ごせたはずなのに、その未来はすべて奪われてしまった。そして奥様もまだ24歳。これからの長い人生を共に歩むはずだったパートナーを突然奪い取られた。
人を殺すということは、被害者のみならず、その周りの人たちの未来をも破壊する行為なのだと改めて思う。今はただ、林警部のご冥福を、そしてご家族に少しでも慰めがもたらされるようにと、祈るばかりだ。
このような殉職者を出したうえに事件解決までに29時間余りを要したことで、警察への批判の声も出ている。
ただ、今の時点で感情的な非難を浴びせるのはどうなのかな、と思う。特に、毎日新聞の社説には、《ふがいなかった警察の対応》というタイトルも含めて違和感を抱いた。
<負傷した警察官が地面に伏し、血を流してうめくのを目の当たりにしながら、5時間余りも救出できなかったとはショックである。平素から危険な任務に就かせているのに、救助が遅れるようでは上司の威令は行き届かない。多くの市民も警察官の苦痛を思い、自分の姿を重ね合わせながら、いざという時に警察に見殺しにされまいか、と不信を募らせたことだろう。人質も救出したのではなく、自ら脱出した。警察にとって手痛い失態と言えよう>
<事件ごとに状況判断は欠かせないが、いたずらに時間を費やさぬように心がけるべきだ。ましてや指揮官が優柔不断であってはならない>
う〜ん。
もし警察が「早期の解決」を焦って突入し、銃撃戦となって人質が傷ついたり亡くなったりする事態になっていれば、この社説はなんと書いていただろうか。おそらく、同じように感情をほとばしらせ、警察の「拙速な対応」や「蛮勇」を非難したに違いない、という気がする。
指揮官の判断が誤っていたというよほどの確証があるならともかく、勇猛果敢な突撃を奨励するような感情的で単純な論調を、報道機関の、それも冷静に物事を分析し提言すべき立場の社説で展開するというのは、いかがなものだろう。例えば、人質が脱出したのは、警察がFM放送局を説得し、DJが犯人の長話を聞いてやっている間の出来事だった、という。そうやって、外部の協力を得ながら、犯人の気持ちをよそにそらす戦法をとったことを「失態」と非難するのは、言い過ぎではないか。
近隣の人たちが不安な思いで過ごした一夜を考えれば、「早期の解決」が望ましい。けれども、持久戦に持ち込むのは「優柔不断」と同義語なのだろうか。犠牲者を出さぬように、そして犯人は必ず生け捕る、という日本の警察が目指してきた原則は、間違っているのだろうか。
犯人を射殺してでも「早期解決」を図るやり方もあろうが、こういう事件の犯人を華々しく死なせてしまうえば、自己顕示の場と自殺の道連れを求めて事件を起こすような輩も出てくるだろう。時間はかかったとしても、極力生け捕りにし、その正体を暴いて社会的なさらし者にすると同時に、動機や銃の入手ルートなど社会が何らかの教訓や情報を引き出す、という方を私は支持したい。
もちろん、今回の事態を招いた原因については、もちろん様々な角度から検証されなければならないし、警察も詳しい説明をするべきだ。
銃を持った相手に対峙する警察官の装備は、今のままで十分なのか。もう少し早く負傷者した警察官を救出できなかった原因は何だったのか。そもそも、銃を利用した事件があまりに多すぎる。国の銃器対策に欠陥があるのではないか……
報道によれば、昨年一年間に警察が押収した真性拳銃は407丁。押収は1995年の1880丁をピークに年々減少している、という。これは、国内で不法に所有されている拳銃の数が減ったわけではなく、むしろ警察の目の届かないところで所持されている銃が増えている、ということなのだろう。警察の捜査能力が低下したのか、あるいは銃を流通させる側の方が巧みになってきているのか、あるいはその両方があいまってのことなのか。
いずれにせよ、住宅街という一般市民の生活の場でこのように銃を使った事件が相次ぐようでは、人々の体感治安は低下する一方だ。日本中から銃を一掃するつもりで、対策を講じる必要がある。そのためにも、今回の事件を起こした大林久という男が、いつどのようにして銃を入手したのか、それをどのように隠していたのかを含めて、きっちりと明らかにしてもらいたい。
さらに、暴力団に対して、担当セクションだけでなく、あらゆる部署を総動員して、厳しい取り締まりを実施すべきだ。この春、うちの近くで暴力団関係者の葬式があった際、黒塗りの車が結集し、路上を半分塞いで他の交通を著しく妨げている他、歩道にもたむろしていた。警察官はたくさんいるのに、車を移動させるわけでもなく、むしろ暴力団を警備してやっているように見えた。そういう光景を見せられれば、警察は本気で暴力団対策をやっているとは思えなくなる。少なくとも、地下鉄サリン事件があった後のオウム真理教に対する対応に比べれば、暴力団対策ははなはだ本気度に欠ける、と言わざるをえない。何も別件逮捕を奨励するわけではないが、一般市民以上にあらゆる法を厳格に適用するという姿勢は必要ではないか。暴力団の力をそいでいけば、銃器の流通の担い手が減るわけで、警察はこの際、暴力団を根絶するつもりで対応をしていただきたい。
そうして銃による犠牲者をなくしていくことが、林警部や伊藤前長崎市長ら、銃によって奪われた命を生かす唯一の道なのだから。