ヒロシマナガサキ
2007年08月06日
ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」を見た。
日系アメリカ人のスティーヴン・オカザキ監督は、この映画のために実に500人以上の被爆者に会って取材をし、その中から14人の証言が紹介されている。
映画は、バンド演奏やショッピングを楽しむ若者たちの映像から始まる。渋谷や原宿では見慣れた日常の光景。
そうした町を歩く若者たちに「1945年の8月6日に何が起きたか知っていたら教えて下さい」と聞いても、「え〜、地震とか?」「歴史は苦手だったんで〜」という答えが返ってくる。
日本の若者は、いまやヒロシマの日を知らない。
かたや心と体に傷を負い、差別を受けながら、必死に60余年を生き抜いてきた被爆者たちにも日常がある。
ある女性は体のあちこちにできる腫瘍と闘いながら、別の女性は家族の中で一人生き残ったことに罪悪感を抱きながら……ある男性は、シャツを脱いで、自身の体をカメラの前にさらした。胸は大きくくぼみ、背中には毎日薬を塗っている。この体で60数年生活していくことはどれほど大変だっただろうか。
被爆者にとっては、毎日を生きることが壮絶な闘いだったのだろう。けれども、映画に出てくる証言者たちは、時に様々な思いがこみ上げることはあっても、概してその口調は淡々としていて、時にユーモラスでさえある。彼らにとっては、被爆体験が60余年にわたる日常そのものだから、なのだろうか。
映画の最後の方で、顔に傷跡のある男性が友人とプロ野球の観戦に行く光景が映し出される。大声で応援し、拍手をしながら野球観戦に興じる男性。ごくありふれた光景のように見える。でも、こうした一見当たり前の日常を獲得し、守るのには、並大抵ではない苦難があっただろう。
「つらいですね、見られるということは、気持ちがいいものではございませんね。しかし、これはやむをえません。泣いてもわめいても元の体にはなれませんから。ならんなら、ならんなりの考えをして、相手に接していこうと今は思っております」
絶望の中から立ち上がり、日常を取り戻すために、自分が前に進むために、様々な思いを封じ込めた「やむをえません」。この言葉の重さと、前防衛相の「しょうがない」発言のどうしようもない軽さと無責任さを思う。
映画の最後は、山手線の駅のホームへ。今の私たちの、戦争を知らない日常に戻る。
被爆者の証言の後だけに、こういう何気ない光景がとても貴重で尊いものに感じる。
あの原爆は、多くの人の日常を一気に奪い、その後も奪い続けてきた。その非道さは、次の世代にはきちんと伝えていかなくてはならない、と改めて思う。そのためにも、全国の高校でこの映画を必ず見るようにする、としたらどうだろう。映画では、戦時中のアメリカが日本について作った映画が紹介されたり、原爆の開発や投下に関わった人たちのインタビューも行われているなど、アメリカの視点も盛り込まれている。そういう複眼的な作りになっているうえに、ナレーションもなく制作者の意図を押しつけることもない。見ている者が、一人ひとり考えられるという意味でも、高校生や大学生のための教材としても最適、という気がする。
市井の普通の人たちの日常がここまで破壊されるという事実は、核保有国の人々にもきちんと伝えていかなくてはならない。
とくに、実際に原爆を使用した唯一の国であり、今も核大国であるアメリカの人々に、この現実をどう伝えるかは、大きな課題だと思う。
その点で興味深いのは、広島平和記念資料館などを運営する広島平和文化センターだ。この財団法人の理事長に、今年4月、アメリカ人のスティーヴン・リーパーさんが就任した。
リーパーさんは、原爆を落としたアメリカの国民である自分がこの役職を努める象徴的意味についてこう語っている。
「被爆者は、ずっと自分たちは報復には関心がないと述べてきました。彼らは、怒りや恨みを、戦争や核兵器のない世界を希求するということに昇華してきたんです。アメリカ人である私の存在は、その証拠です。私は、皆さんから、とりわけ被爆者の方々から大変歓迎をされました」(8月5日付Japan Times)
リーパーさんらは、アメリカ国内101カ所で原爆に関する展示を行い、被爆体験者を派遣して、その体験を伝えるプロジェクトを準備している、という。
アメリカ軍のお手伝いをすらだけでなく、そういう平和のための動きを財政的に支えることも、私たちにできる大事な国際貢献ではないだろうか。
(映画「ヒロシマナガサキ」の公式サイトはこちらhttp://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/)