終戦の日に
2007年08月15日
15日の終戦記念日。
閣僚の中でただ一人靖国神社に参拝した高市早苗少子化担当相は、その理由をこう語っている。
「私は1人の日本人として国会議員として、現在は閣僚だが、折に触れてたった1つの大切な命を国家のためにささげられた方々に感謝の思いをささげたいし、その御霊が安らかであるようお祈りしたいと思っている」(産経新聞SankeiWebより)
私は、参拝の事実より、この高市氏のコメントに強烈な違和感を覚えた。
「捧げた」という言葉には、行為の主体の「意思」が込もっている。「愛する人にすべてを捧げる」のも、「研究に生涯を捧げる」のも、他のなによりも大切なものを自ら選び取り、そのために時間、心、命など自分の持っているすべて差し出しているわけで、決して強いられた行為ではない。
戦争で亡くなった方々が、「国家」を自分の「たった一つの大切な命」より大切に思い、自らをなげうって尽くす道を選び取ったのであれば、高市氏の言う通りでよいのだろう。自ら選んで職業軍人となった人たちの場合には、(その判断の過程で正確な情報を与えられなかったという重大な事実に目をつぶれば)「捧げた」と言う言葉も、それほど不適当ではないかもしれない。
しかし……。
15日付読売新聞夕刊に、全国戦没者追悼式に出席した最高齢の遺族松岡コトさん(101)のことが詳しく紹介されている。今年の追悼式に参加した遺族のうち「父母」は松岡さん一人。「妻」も110人(全体の2.2%)と過去最少で、大半は「子」となる世代交代が進んでいる。松岡さんは、高齢を押して、車いすで式典に参加した。
以下、読売新聞の記事を引用する。
× × × × ×
長男の松岡欣平(きんぺい)さんは、東大経済学部在学中の1943年12月、学徒動員で出征した。20歳だった。
部隊に入営する欣平さんを、コトさんは自宅前で見送った。「元気で帰ってきて」。涙をこらえて言うと、欣平さんは笑顔を返した。「帰ってくる」
しかし、欣平さんは、出征前の身もだえするような葛藤(かっとう)を、その日記に残していた。
<九月二十七日 自分は命が惜しい、しかしそれがすべてでないことはもちろんだ。(中略)死、死、一体死とは何だろうか。(中略)政府よ、日本の現在行っている戦は勝算あってやっているのであろうか>
<十月四日 もう学問など出来ぬと半ば捨て鉢とでもいう気持ちになると、小説がむやみに読みたい。(中略)ああ もっと本を読んでおけばよかった>
<十一月某日 俺(おれ)は気が狂いそうだ。(中略)戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとってあまりにもつよい宿命的な存在なのである。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ>
× × × × ×
コトさんの三女によれば、欣平さんの戦死を知って、両親は仏間で泣き崩れていたそうだ。
コトさんは、読売新聞の取材に、こう応えている。
「二度と戦争なんてあっちゃだめです。私一人じゃなくて、子供を戦争に出した人はみんな同じ思いでいるのですから」
地道に働いて、あるいは勉学に勤しんでいた者が、職場を離れ、学問を諦め、家族から引きはがされて戦地に送られ、南方で飢えと暑さに苦しみながら、あるいは貧弱な装備の船で運ばれていく途中に沈められて、さらにはまるで兵器の一部品のように使い捨てられて死んでいった。そして、その家族の嘆きや苦しみがあった。
彼らの死は、自ら命を国家に「捧げた」のではなく、「召し上げられた」と表現するのがふさわしい。
国民の命を国家が召し上げるようなことが二度とないようにする――これが、政治家の一番大切な使命のはず。「国家に捧げた」などといった美談に浸り、現実を見つめることすらできない者は、国政の場にいてもらっては困る。
生きたいと哭くや社の蝉時雨











