まだやってる?!朝青龍問題

2007年09月06日

 お昼時にテレビをつけたら、少なくとも二つの民放で朝青龍問題をやっていた。
 まだやってるの?!というカンジ。
 なんでも、予定していた温泉治療施設の前には日本のマスコミが張っているので、朝青龍は「行かれない」と言っており、治療場所を別の施設に変更するらしい。この分だと、レポーターたちは別の施設まで追いかけていきそうだ。どちらの番組でも、出演者たちは「高砂親方が確認をした施設にいかないのはとんでもない」「堂々と行けばいい」などと憤慨。高砂部屋からは親方ではなくマネージャーを派遣することになった、という点についても、相撲ジャーナリストという人が「これでは監視ができない!! 野放しです!!!」と怒りまくっていた。
 正論なのかもしれないが、そんな風に青筋立てて怒るほどのことなのだろうか。
 野獣でも殺人鬼でもないのだから、野放しにしたって構わないのではないか、という気がする。別に害を被る人はいないだろうに…
 いるとすれば、メンツを潰される日本相撲協会だろうか。でもここも、対応を誤って問題をこじらせた一因があるのだから、何もメディアを上げて対面を守ってやる必要はない。それどころか、こういう横綱を育て依存してきたことは、もっと批判をされていいように思う。
 それに加えて、横綱審議委員会。前委員長の石橋義夫委員によると「横綱に推挙したことを、横審はみんなが反省している」のだそう。けれども、その責任をとって誰かが辞めたわけでもない。1年間に5人もの大臣が辞任・自殺しても、自分だけは地位にしがみついている首相をいただく国の国技なのだから、不思議に思うことはないのかもしれないけれど。
 確かに、問題が発覚した時に、すぐに朝青龍自身が自分の口で説明し、謝罪をしていれば、さほど大事にならずに済んだはず。それができなかった彼の人間的な未熟さが騒動の原因だろう。とはいえ、一ヶ月以上にわたって連日報道し、多数の記者やカメラマンをモンゴルに派遣するほどの大問題なのだろうか、これが。
 肝心の朝青龍はマスコミの前にほとんど姿を現さないし、事態に進展があるわけでもない。番組の内容も、閉じこもる朝青龍とその態度への批判という構図は、2週間前と何ら変わらない。変わったのは、場所が都内のマンションからモンゴルに移ったことくらいだ。
 それでも大きく取り上げられるのは、これは視聴率がとれる話題だから。ということは、多くの人が今なお、この問題になると見てしまう、ということになる(かくいう私も、何のかんのと言いながら、お昼の番組は朝青龍問題のコーナーが終わるまで見てしまったし、こうやって駄文を書いている)。
 
 このような現象は、外国人の目には奇異に映るらしい。
 9月4日付の英字新聞ジャパンタイムズに、二人の外国人記者が書いた「朝青龍はスケープゴートにされている」と題する大きな記事が載っていた。
 その概要はこうだ。

<朝青龍は素晴らしい成績を収めてきたばかりではなく、相撲を通じて国際的な親善大使としての役割も果たしてきた。非難されているサッカーにしても、モンゴル政府の依頼で参加したチャリティーイベントであって、朝青龍としては断るのは難しかっただろう。元気そうにプレーをしていたのも、ひとたび公の場に出ればスポーツマンとして頑張るように訓練されてきたからではないか。朝青龍問題は、相撲界の様々な問題を覆い隠すのに利用されている。八百長疑惑のほか、日本人の新弟子が減り続けて、とうとう志望者がゼロになってしまったという現実もある。さらには、いじめやしごきの問題も見逃せない。6月に時津風部屋の17歳の力士時太山(ときたいざん)が死亡した件では、遺体は耳が裂け歯や骨が折れていた他、たばこによる”根性焼き”の跡まであった。なのに、マスコミはほとんどこの問題を報じていない。それに比べて、今回の朝青龍を巡る報道は、あまりにもバランスを欠いている>
 
 時太山の死亡について、リンチ死疑惑を追及したのは『週刊現代』くらい。相撲協会が、この問題について調査委員会を作ったという話も聞かない。
 17歳の青年の無惨な死と、わがままな横綱の行状を比較すれば、前者の方がずっと重い。相撲界のことを考えれば、巡業を一度サボったことより、八百長疑惑の方がずっと深刻だ。
 相撲の行く末を嘆く相撲ジャーナリスト氏らは、朝青龍のかくれんぼに付き合うより、こちらの問題を追及した方がいいのではないか。
 
 ただ、ジャパンタイムズの記者がもしかして分かってないのではないかと思うのは、朝青龍問題に注目している人々の多くは、何も相撲に興味があるわけではない、ということだ。
 世間を騒がせておきながら、謝罪を拒んで引きこもる――この態度に、人々の心は刺激され、関心を引き寄せられている。
 日本においては、「謝罪」は、自らの非を認めてその罪を詫びる時になされるだけでなく、世間を騒がせたり心配をかけたりした時(たとえ世間の方が勝手に騒いだ場合でも)、社会に戻る際の「挨拶」であり、潤滑油なのだと思う。だから、なんの「挨拶」もなしに、堂々と元の場所に戻ろうとする者に対して、ムッとする気持ちが芽生える。一言小言を言いたくなる。
 一方の「謝罪」を求められた朝青龍の側からすれば、特定の誰かに害を与えたわけではなく、格別の非があるわけでもないのに、なぜ謝らなければならないのかと心外に思い、むしろ被害者意識を募らせていく。彼が、「どうしてこうなったのか分からない」という趣旨のことを言っていたとの報道があったが、何を批判されているのか、今なお分かっていないのかもしれない。
 本当ならば、親方が「日本の社会ではね…」と教えてやればいいのだが、朝青龍と高砂親方は、そういう指導ができる関係ではなかったのだろう。ならば、かつてはやはり憎たらしいほど強い横綱であった北の湖理事長が出て行って、とっくりと話をしてやればよかったのだ。それができない相撲界のコミュニケーション能力の低さが、問題の長期化を招いた。
 人々の多くは、相撲ジャーナリスト氏のように怒りを爆発させているわけではない(と思う)。怒っているというより、呆れている。そして、力の強い者がゴネれば自分の欲求が通るというのは、おかしいんじゃないかという素朴な感情を抱いている。そのうえで、そういう自分と同じ感覚の人がたくさんいることを、テレビ番組や会話を通して確認して、なんとなく安心しているのではないだろうか。
 なにしろ最近は、日常の生活の中でも、まともな「挨拶」ができなかったり、わがままを通そうとする”困った人たち”が多く、唖然とさせられたりムッとさせられる場面がしばしばある。それに対して、一言言いたくても言えないことも多い。そのういう中で、朝青龍は今や安心して批判をできる対象。彼は世にはびこる”困った人たち”を代表して小言を言われているような気もする。
 ただ、レポーターやカメラマンが草原の果てまで朝青龍を追いかけていったとしても、事態が好転するわけでもなく、私たちの生活に闖入してくる”困った人たち”がいなくなるわけでもない。
 そろそろ、朝青龍は”野放し”にして、本人が「よくなった」と言った時に、改めて説明を求めるというのでいいのではないか。その間に、彼が信頼する人が、なぜこういう事態になったのかを話してやり、日本の社会に受け入れられる「挨拶」の仕方を教えてやればいいのだ。
 問題は、日本の相撲界の中にそういうまともなコミュニケーションができる人がいなさそうだ、ということだ。さらに深刻なのは、自分たちのコミュニケーション能力の低さについての自覚がまるでなさそうだ、という点。これでは、若い人たちが角界に集まって来るはずがない。新弟子への応募がゼロというのは、相撲というスポーツの人気低下もさることながら、こういう体質の業界に若い世代が魅力を感じない、ということを示している。
 一連のドタバタで、そうした相撲界の実態が私たち業界の外の人間にも見えるようになったのは、大変結構なことだと思う。それが――年6場所完全優勝という大記録もさることながら――朝青龍が日本の相撲界になした最大の貢献なのかもしれない。

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