少年事件の調書漏洩で逮捕:報道の領域に踏み込む捜査機関

2007年10月17日

 昨年、奈良県の医師宅が高校1年生の長男に放火され母子3人が死亡した事件に関して、捜査資料が大量に引用された本を巡って、この長男の精神鑑定を行った医師が奈良地検に逮捕された。
 医師や著者の草薙厚子さんの自宅などは家宅捜索がなされている。家裁が医師に渡した捜査資料からは草薙さんの指紋が検出されるなど、重要な証拠は捜査側がすでに押収済みだ。しかも、医師は任意の取り調べで秘密漏示の容疑を認めていた。ならば、証拠隠滅のおそれはないだろうし、秘密漏示罪は最高刑でも懲役6か月であり、病院の副部長として勤務を続けている医師という立場を考えれば、逃亡する可能性もないに等しいのではないか。これだけ問題になった後に、彼に精神鑑定を求める裁判所はないだろうから、再び同じ犯罪を犯す心配もない。任意の捜査を続け、起訴するのであれば、在宅のままでも、何の問題もなく、有罪を立証できたはずだ。
 とても逮捕の要件を満たすとは思えない。にもかかわらず、奈良地検は何のために逮捕に踏み切ったのだろうか。
 10月17日付読売新聞の社説などによると、いったんは見送った著者の草薙さんを「身分なき共犯」として立件べきかどうか検討するためだという。
 つまり、奈良地検は草薙さんを訴追したかった。けれども、医師に対する任意捜査では草薙さんを訴追するための十分な供述が引き出せなかった。それで、捜査機関が求める証言や供述をさせるために逮捕した、ということのようなのだ。
 捜査機関が望むような話をしなければ、たとえ要件を満たしていなくても逮捕する。そんな捜査手法が、法治国家として許されるのだろうか。
 
 私自身が、この本を読んだのは、医師宅などに家宅捜索が行われた後だ。事件に関心はあったのに、出版された直後に買って読もうと思わなかったのは、まず「3000枚の捜査資料」を前面に、「少年法のタブーを破る」ことを”ウリ”にしたPRに違和感を感じたこと。すでに父親が長男に面会した時の状況を書いた手記が新聞に掲載されており、父と息子は感情の行き違いがあったものの和解していて、事件は一件落着している、という印象もあった。
 けれども、この本を読んで、私が新聞報道からいだいていた事件のイメージは、かなり違うのではないか、と思った。ここに書かれていることが正しければ、長男に対する父親の態度は、報じられてきたような「スパルタ教育」というレベルではなく、息子への愛情が行き過ぎを生んだというような話でもなく、感情の抑制を欠いたがための虐待と呼ぶべきだ。本来、一番安心できる場所であるべき家庭が、この子にとっては一番緊張する場になってしまった所から悲劇が起きた。子どもには、本当に安心できる場所が絶対に必要なのだと、同書を読むと痛感させられた。
 また、この長男が3人もの人命を奪っておきながら少年院送致になったことも、この本を読んでようやく納得できた。
 実は、本件が起きる前年に東京都板橋区の建設会社社員寮で、管理人だった両親を殺害して管理人室をスプレー缶の爆発を起こした事件との処分結果の差が、私はとても気になっていた。板橋事件の場合、加害少年は犯行時15歳と奈良の事件より年少だ。やはり父親からの虐待を訴えており、多くの嘆願署名も裁判所に寄せられていた。その彼は、大人と同じ刑事裁判の被告人となり、一審では懲役14年という厳しい判決が科せられた。
 奈良の事件の方が被害者の数も多く、しかも、そのうち2人は7歳と5歳という幼さだった。結果の重大さという点では、こちらの方がはるかに重いと言えるのではないか。にもかかわらず、処分は板橋事件に比べて遙かに軽い。
 問題となった本によれば、奈良の放火事件の少年には発達性障害があり、父親からの虐待に加えて、この障害ゆえに通常では理解しがたい行動の数々が引き起こされている可能性が高いとのころ。そういう事情を勘案して、検察庁に逆送致して一般の裁判を受けさせ、刑事罰を科すより、少年院で専門家による指導をじっくり受けた方がよい、と家庭裁判所は判断したのだろう。

 少年事件は情報の開示がきわめて制限され、家裁での審判も非公開で、その後の記録をもとに検証することすらできない。多くの人は、事件の結果に衝撃を受けるだけで、なぜこういうことが起きたのかを考える材料さえ提示されないままだ。一部で誤った情報が流布されても、なかなか正される機会もない。
 重大な少年事件の多くは家庭での問題が背景にあると言われており、そのような事件を扱ったレポートがプライヴァシーに触れるのは、真相に迫るために不可欠であれば、ある程度はやむを得ない、と思う。単なる親子げんかなど家庭内のトラブルにとどまるのであれば、プライヴァシーの保護が最優先されて然るべきだろう。けれども、殺人事件が発生し、捜査機関や裁判所が動いた事件では、その背景や要因となる家庭内の事柄は、まったくの私事とはいえなくなる。
 誰も、自分が犯した犯罪や家庭内の事情が表に出されるのはイヤだろう。ましてや当事者が子どもであれば、その更正を考える周囲の大人たちが、情報開示に慎重になるのは当然だ。そうした当事者の思いは無視されてはならない。とりわけ、少年の個人を特定する情報は、公開されるべきではない。一部の雑誌やインターネットで、事件を起こした少年の名前や顔写真が公表されることがあるが、私は賛同できない。その一方で、人々が事件の背景や動機などを知って、そこから教訓を学び取ったり、自分自身の問題として考えたりするように、その材料を提供することは、大きな社会の利益になる。このように、当事者の思いと社会の利益、プライヴァシーと人々の知る権利の兼ね合いを考えることが必要だ。プライヴァシーは常に知る権利に優先するというわけではないし、知る権利を盾にすれば何でもかんでも暴いてよい、ものでもない。
 この本では、草薙さんが少年が通っていた学校名、殺害された継母の名前などを出したのは、少年法の精神にも条文にも反している。しかし、テストの成績や実母に関する記述は、むしろ事件の本質を見るうえで、必要だっただろうし、決してのぞき趣味的な悪質なものではない、と私は思う。
 ただし、これは私が考える基準であって、他の人たちには異なる意見もあろう。議論を交わしながら、プライヴァシーと知る権利をどのようにバランスをとっていくか、だいたいの許容範囲というものを作っていかなければならない。その議論には、ジャーナリストはもちろん、少年事件を手がけている弁護士、学者、少年院の法務教官、保護司、警察官、教育関係者、その他子どもにかかわる様々な立場の人たちが参画することが望ましい。しかしながら、そういう場に、捜査当局が権力をかざして強制捜査で乗り込んでくるのは実にふさわしくない。
 今回の逮捕によって、メディアやジャーナリストに情報提供しようという関係者は激減するだろう。いなくなるかもしれない。それだけの威嚇効果がある。少年事件はますます密室化し、人々が真相を知ることはできにくくなるだろう。
 それでいいのか。

 この事件では、父親が息子との面会でのやりとりなどを手記で公開した。
 弁護士の場合は、医師と同じように秘密漏示罪で訴追される可能性があるが、親であれば何の問題もないらしい。
 「しかし」と、ここで新たな疑問が湧く。
 父親などの親権者だけがそうした情報の開示をする権利がある、とするならば、親権者の都合のいい情報だけが選択されて発表されたり、それが誤った思いこみに基づいた情報であったとしても、何ら検証できない、ということになる。
 特に、事件の背景でもある家庭の状況について、不正確な情報が伝われば、事件の本質を見誤ることもありする。
 それはそれで、問題ではないだろうか。
 
 私自身も、草薙さんの執筆方法や講談社の対応に強い違和感を抱いている部分はいくつもある。
 前述のように、学校名や継母の名前のように個人の特定につながる情報を出したり、「3000枚の捜査資料」を”ウリ”にしたことのほか、供述調書にあまりに依存しすぎている本の基本的な方針にも疑問を持っている。
 草薙さんは、自身のブログの中で、本の出版動機を次のように述べている。
<マスコミ報道が過熱することには是非があると思うが、少なくとも成人事件の場合は、判決が確定するまで各社は取材を続ける。そうした中で、初期報道の誤りが訂正される機会もあるし、何より公判廷においてある程度事件の全貌が明らかになる。そこが少年事件と異なる。初期報道で喧伝された「普通の頭の良い子が突然、事件を起こした」という言葉だけが残されては、国民は不安に陥るばかりだ。私はこうした不安を解消する一つの方法が、「正しい情報」を公開し、検証することだと判断し、出版することを決めた。>
 しかし、供述調書は常に「正しい情報」とは限らない。
 調書は、警察官や検察官が取り調べの概要を取調官の言葉で書いたものであって、関係者の供述がそっくりそのまま性格に記録されたものではない。供述した者からすると、ニュアンスが異なることなど日常茶飯事的にある。大人の被疑者でも、訂正申立をして、それが認められなければ署名捺印はしないと、そうそうがんばれるものではない。ましてや少年の場合、どうか。少年の周囲の大人たちも、混乱していて、とても調書にあるようにすらすら語ってはいないだろう。犯行を認めている事件でも、被告人が裁判で供述調書の一部を否認したり、被告人質問などで本人の主張を展開するケースは珍しくない。
 草薙さん自身も、調書の中で少年が継母に対する不満を述べた点については、「おそらく取り調べた警察官による誘導によるものだろう」と書いている。この部分に「誘導」があるのに、他の部分はすべて「正しい情報」と言い切れるのだろうか。
 調書を入手した後、それをできる限り検証したり、補足取材をし、すべてを総合して咀嚼し直し、筆者自身の言葉で書くのが、こうした事件のレポートにあたっての基本姿勢だと私は思う。もちろん必要な場合に調書を引用することはあっても、半分以上が調書の引き写しというのは、私としては相当に違和感を覚える。
 
 こんな風に、取材や執筆の手法を巡って、メディアやジャーナリストの間で激しい議論をしたり問題点を指摘し合うことは、有益なことだと思う。
 けれども、プライヴァシーと知る権利の境界をどうするかという領域に、捜査機関が強制的な権限を行使して乗り込んでくるのには、言論に携わる者たちは敏感に反応し、警戒をしなければならない。
 実際、多くのメディアは、草薙さんの取材や執筆の方法について批判をしながらも、奈良地検に対して、「調書漏洩で逮捕は行き過ぎだ」(10月16日付日経社説)としている。捜査機関に対しては比較的理解を示すことの多い産経新聞でさえ、「なぜ逃亡の恐れもない医師をあえて逮捕に踏み切ったのか、説明する義務があろう」と奈良地検に注文をつけている。
 そんな中で、読売新聞の論調は特異だった。捜査のあり方についての疑問や注文は一切つけないどころか、奈良地検になり代わって、逮捕の必要性を解説している。草薙さんの取材や執筆に対する批判は闊達に行っていいと思うが、それに夢中になって、捜査機関が取材の情報源に強制捜査を行うことへの批判や警戒心をまったく持たないというのは、どういうことだろうか。
 今年2月、防衛省情報本部の課長だった一等空佐が、読売新聞記者に内部情報を漏らしたとして、自衛隊法違反(秘密漏洩)の容疑で捜査が行われ、3月に書類送検された。この時には、「防衛秘密」の漏洩が問題となったが、一等空佐は在宅での捜査だった。それでも、読売新聞は「国民の『知る権利』を損ないかねない憂慮すべき事態だ」「こうした対応は、取材対象となる公務員らを萎縮させ、結果的に記者の取材・報道をも規制してしまう危険性が高い。国民の知る権利も狭められてしまう」と反論し、識者の談話も紹介しつつ捜査を批判した。
 この時の読売新聞の論調には、自分たちの「取材は適正」である強い自負が感じられた。
 それに比べて、草薙さんのやり方は脇が甘いということなのだろう。確かにそういう点は否めないが、今回の強制捜査も、少年事件での「取材・報道をも規制してしまう危険性が高い」ものであり、「国民の知る権利も狭められてしまう」危険性では一緒だ。
 読売新聞は、主筆の渡辺恒夫氏が週刊誌などでプライヴァシーを暴かれたりした経験があるせいか、週刊誌やそれに連なる(と思うのか)フリーランスのジャーナリストの取材や報道に対してはきわめて厳しい。反発すらを抱いているらしく、むしろ報道規制に賛同する意見を述べることがしばしばある。田中真紀子衆院議員の長女の離婚問題を報じた週刊文春が、裁判所に販売差し止めの仮処分命令を出された時にも、読売新聞は裁判所の判断を支持した。イラクでフリーのカメラマンを含む3人が人質になった時にも、一面で大きく次のような見出しの記事を載せた。
<「今はイラクで稼げる」勧告後も続々入国 フリー記者、危険無視>
 要するにフリーのジャーナリストは、「稼げる」と金儲けのために、危険地帯に向かっていると、説教口調で書いた記事だった(この読売新聞が、ミャンマーで殺害されたフリージャーナリストの長井健司さんに関しては、新聞の中で一番熱心に報じているというのが不思議な気がするが、長井さんや橋田さんのように死者にはむち打たないというのが、同社の基本姿勢なのかもしれない)。
 フリーランス嫌い週刊誌憎しの余り、肝心の「知る権利」を忘れてしまって欲しくない。国家権力が、報道規制の動きを見せた時には、私情を捨て、国民の利益という観点から、冷静に考えてもらいたい。
 
 結論――。取材の手法、執筆に仕方に対する批判や議論はむしろすべきだ。少年事件についての情報をどこまで公表してよいかについては、これまで以上に活発な議論を行うことが望ましい。しかし、プライヴァシーと知る権利をどう調和させるか、という問題に、公権力が立ち入るべきではない。強制捜査によって知る権利が侵害される事態に、メディアはもっと敏感であってもらいたい。

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