暴力には屈しない

2008年04月09日

 かつて、私が神奈川新聞の記者をしていた時のこと。
 金のペーパー商法などが流行り、そのほかの悪徳商法も問題になった。それら様々な消費者問題を取材する中で、私は統一教会の霊感商法を知った。信者が組織的にあちこちの家庭を回り、悩みを聞き出したり、将来に不安を抱かせたりしたうえで、災いを取り除くなどと称して印鑑や壺などを高額で売りつける、というもの。消費者センターなどの窓口にも相談が寄せられており、弁護士の有志が相談会を開いたりもした。
 私が書いた、弁護士による相談会についての記事は、新聞に掲載された。ベタ記事か、せいぜい2段見出しくらいの小さな扱いだったと記憶している。
 ところが、それにはびっくりするほどの、大きなリアクションがあった。
 その日の夕方から、新聞社はすさまじい数の抗議電話にさらされたのだ。代表電話は受信能力を超えて常にお話中の状態となった。当時は部局ごとの直通電話はほとんどなかったし、携帯電話もない時代。会社の通信機能はマヒしてしまった。
 この電話は夜中の2時まで続いた。
 そして翌朝も、同様の事態が続いた。さらに翌日も……。
 圧倒的に無言電話が多かったが、社長や編集局長の身辺に気をつけるようにという脅しもあった。会社の幹部の自宅にも嫌がらせ電話はかかってきた。
 その時、私の上司だった牧内良平社会部長は、次のような3段見出しのコラムを書いて、実名と共に紙面に掲載した。

 ”暴力電話”には屈しない
 
 中身を引用する。

<暴力は、どんな形にしろ絶対に容認できない。電話によるいやがらせは陰湿なうえに、数にモノを言わせたものは組織暴力である>
<記事に批判されるべき誤りや欠陥は全くない。
 公器である新聞は、真実の報道が使命であり、誤報は許されない。仮にその内容に誤りや誤解を生む記述があれば、批判や抗議を受けるのは当たり前だし、社として誠意をもって対応しなければならない。しかし、このケースは記事に落ち度があるわけではなく、第一、理不尽な「無言電話」では誠意も示せない。さらに言えば、本社の幹部宅へのいやがらせ電話は言語道断というほかない。
 わたしたちは、こうしたいやがらせ電話を言論の自由に対する重大な挑戦と受け止めている。電話は、ある大がかりな団体による組織的なものと察しがついている。電話による暴力にひるもどころか、豊田商事事件の教訓に習って被害者の立場に立ったキャンペーン記事を載せていきたいと思っている。県民の財産ともいえる地元紙の編集権が特定の勢力に侵されてはならないし、そうした暴力に屈するわけにはいかない>

 「ある大がかりな団体」というのは、もちろん統一教会のことだ。何年も経ってから、元統一教会信者が、教団の上司の指示でいやがらせ電話をかけたことを、私に告白してくれた。
 牧内部長は、紙面でこのような宣言を行う一方、私に対して、「霊感商法に関する記事を積極的に書くように」と命じた。先方には嫌がらせや脅しは逆効果であることを伝え、読者県民に神奈川新聞社がそうした暴力には屈しないということを明らかにするためにも、あえて霊感商法を取り上げよ、というのが、部長の指示の趣旨だった。
 私は、霊感商法についてのキャンペーンを準備していたわけではなかった。こういういやがらせをうけたおかげで、私は消費者センターや弁護士を周り、さらには統一教会本部を訪ねるなど、記事の材料集めに奔走することになった。
 
 言論・表現・報道の自由を巡る私の考えの出発点は、この時の体験にある。
 脅しや暴力に対しては、社会は大いに警察の力を活用すべきだ。しかし、それ以前に、言論・表現・報道に携わる者が、それに対する攻撃に対しては毅然と立ち向かうという姿勢を示すことが、まず必要だと思う。
 それは同時に、社会に向かってのSOSでもある。それは、健全な民主主義社会にとって、もっとも大事な要素の一つである言論・表現・報道の自由が損なわれようとしている時、人々は暴力を排除するために声を挙げてくれるだろうという、信頼に基づいたメッセージだ。
 そのメッセージに対して、人々がどう応えるかが問われる。
 
 しかし、映画『靖国』の上映を取りやめた映画館が、そうしたメッセージを発することさえしないまま、撤退を決めてしまったのは、実に残念なことだった。
 この問題について書いた前回の拙稿について、いくつかのご批判をいただいた。その中には、上映を取りやめた映画館に対して江川は厳しすぎる、映画館がかわいそうだ、というご意見もあった。けれどもやはり、私は映画館の対応は間違っていた、と思っている。
 実は、上映を中止してしまった映画館の関係者の中にも、「バンバン批判して下さいよ」と無念そうに語ってくれた者もいた。
 映画館の経営者は、自らの生業はエンターテイメント産業であると同時に、表現の場である、という自覚をもってもらいたい。

 ただ、幸いなことに、そういう自覚のもとに仕事をしている映画館経営者が少なくなく、全国各地で地域に根ざした営みをしていることを、今回の出来事は示してくれた。
 上映中止が相次ぐ中、予定通りに上映するとした大阪・第七芸術劇場の支配人の言葉がいい。
「庶民と深く結びついている映画館は、作品を見て考え、議論のきっかけになる場所。上映を求める声があるので、それに応えたい」
「社会派からアイドル映画までさまざまな映画を上映するスタンスで、いろんな考えの人が気軽に見に来られる場であるべき。見られる場がなくなるというのは、違うのでは」
 ひるまず、かといってむやみに肩に力が入っているわけでもなく、自然体の対応に、プロ意識を感じる。
 新たに上映を決めた映画館もあるようで、全国21か所での上映が決まっている、との報道もあった。
 これらの上映を、経営的にも成功させたいものだ。そのことで、言論・表現・報道に対する暴力や妨害は、むしろ逆効果であることが明らかにしたい。
 もちろん、映画に対する意見は様々だろう。何しろ、上映されないことには、映画に対する批判もできない。これをきっかけに活発な議論が展開されればいいと思う。本稿を読んで下さっている方には、近くに公開している映画館があれば、とりあえず見てみて、そのうえで映画のよしあしを議論してもらいたい。
 
 もし、映画館に対する妨害や脅しがあった場合、当該映画館はぜひとも社会に向かってSOSを発信して欲しい。
 私たちは、その時再び声を挙げたい。人々が連帯することで言論の自由を守っていきたい。右翼の中でも、自分たちの言論の自由を守るためには他者の言論も守らなければならないと考える人たちもいる。
 たとえば、民族派の一水会代表木村三浩氏は、私の問い合わせに対して、次のように語っていた。
「上映の妨害などが起こらないよう、呼びかけをしている。批判も含めて、映画についてのまっとうな議論をするためには、まずは(右翼の人たちに)映画を見てもらいたい。そのための努力をしている」
 
 もちろん、警察の適切な対応も求められる。
 右翼の示威活動に対して、警察の対応があまりに大人しい、と思っている人は少なくない。私も、暴力的な音量や威嚇的な言葉による「抗議行動」に対して、警察官は周囲を取り巻くだけで、何の制止もしない、という場面を何度も見たことがある。
 そうした警察の対応の積み重ねによって、多くの人が「何かあっても警察は助けにない」という不信感を抱いていることを、今回の出来事をきっかけに、警察にはよくよく認識してもらいたい。
 この不信を払拭するためにも、警察庁長官や国家公安委員長が「言論や表現に対する威嚇や妨害は、きちんと取り締まる」と明言し、全国の警察に徹底させるべきではないか。
 
 ただ、警察の取り締まりは、本当は「尻を叩いてようやく動く」くらいがちょうどいいような気もする。
 高輪プリンスホテルは、日教組との契約を一方的に破棄した理由の一つとして、「警察当局から私どもには具体的な警備のご相談が一切ございませんでした」と書いている。しかし、何も依頼されてないのに、ご用聞きのように、警察の方から「ご用はありませんか」と、何でもかんでも首を突っ込んでくるようになっては、新たな問題が生じるのではないか。
 今回の映画の上映を不適切と考えた人が、例えば映画館に対して自分の意見を表明することが、一切まかりらん、というのも行きすぎだ。上映反対を言う自由もある。発言の内容ではなく、その態様が暴力的威嚇的であるかどうかによって、取り締まるか否かを判断することになるだろう。
 どの程度の、いかなるタイミングでの取り締まりが「適切」なのかは、ケースバイケースで難しいところだが、警察力を活用するのも、映画館、及びこの社会を構成する一人ひとりが、言論・表現・報道・集会結社の自由を守っていくという意識が大前提で、警察が先行してすべてを取り仕切るというのは、かえって危険だ。「私たちは何もやりたくありません」と警察に任せきるのは、私たちの言論・表現の自由を、権力機関に預けてしまうようなもので、やはり問題だろう。
 まずは、言論・表現・報道を生業とする者が、その権利を守る自覚をもつこと。これは、言論・表現・報道に携わる者の、職業倫理だと思う。
 

 稲田朋美議員ら政治家の行動については、稿を改めて書くことにしたい。

Copyright 2006 © Shoko Egawa All Right Reserved.
CMパンチ:ホームページ制作会社:港区赤坂