非暴力が暴力に勝てる日

2008年04月26日

 暴力はいけない。
 けれども、暴力沙汰が起こらなければ、問題に人々は気づかない。あるいは、忘れてしまう。
 暴力が激しければ激しいほど、被害が大きければ大きいほど、ニュースは広く、繰り返し伝えられる。そうして、人々は暴力の原因となる、問題について知ったり、考えたりすることになる。
 パレスチナ問題でもそうだった。ロシアでのチェチェン問題もそうだった。悲惨な被害を出すテロと、それを上回る被害を出しての報復や鎮圧行為。そうした事態になって初めて、マスコミはこれを報じ、人々は問題が未解決であることを思い出す。
 しかも、最初の暴力には驚いていても、それが続くと慣れてしまう。当初は数人の被害者が出れば大きく報じられたのが、そのうち犠牲者が何十人もに及ぶ規模にならないと、新聞の一面には載らず、テレビでも伝えられなくなる。アメリカが”勝利宣言”をした後のイラクが、まさにそうだ。
 影響力という点で、暴力は非暴力をはるかに勝っている。
  
 チベットを巡る問題も、同じような矛盾を抱えている。
 ダライ・ラマ14世がラサを離れ、インドに亡命して49年。事態は改善されていないどころか、むしろ悪化しているとようだ。けれども、この現状は大メディアではほとんど報じられない。例外的に、ダライ・ラマ法王がノーベル平和賞を受賞した時やカルマパ17世がチベットを脱出してインドに亡命したことなどは大きく伝えられたが、その時でも、報道は主に法王自身の人柄や発言を伝えることに終始したり、報道は一瞬で終わってしまったりして、チベットで何が行われているかが、人々に強く印象づけられることはなかったように思う。
 それが、先月チベットでの騒乱があって、死傷者が出て、世界中の人々が、問題の存在に気づかされたり、思い出したりした。報道が規制されている中国でさえ、政府によって都合よく事実がゆがめられているとはいえ、不満を持っているチベット人が少なからずいることを、人々が知らざるを得なくなった。
 中国政府は外国人を締め出し、海外の報道にも自由な報道をさせず、情報を遮断することで事態の収拾を図ったが、たまたまオリンピックの聖火リレーの時期と重なったことでそうはいかなくなった。
 ドイツのメルケル首相やイギリスのチャールズ皇太子らが、開会式には出席しない意向を表明。さらにロンドンやパリの聖火リレーのコースでは、デモも起きた。ここで聖火リレーをやめさせようとするデモ隊と警官隊のぶつかり合いもあり、こうした”肉弾戦”が大きく報じられた。
 アメリカでは、サンフランシスコの金門橋にチベット支援者が大きなバナーを掲げた。やった人たちは、「平和的に訴えるには、この方法しかなかった」と語った後、建造物侵入などで逮捕された。この時の映像は、やはり世界に広く伝えられた。
 その後のパキスタンやインド、タイでの聖火リレーは、市民を閉め出す形で行われ、オーストラリアでも大きなトラブルは起きなかった。そういう時は、報道は小さい。
 チベットで、いったい何が行われたか、何が行われているのか、まったく知る機会がないまま、人々の関心は主に、長野での聖火リレーで暴力沙汰があるかどうか、へ移っていった。
 
 そして当日。
 テレビは、萩本欽一氏が担当している区間でモノを投げ込んだ場面と、福原愛さんの時にチベット旗を手に飛び出してきた男が取り押さえられ、連行されるシーンを繰り返し繰り返し流した。新聞の夕刊各紙が1面に載せた写真も、警官隊によって男が取り押さえられるシーンだった。
 結局、男5人が逮捕され、4人のけが人が出た、とのこと。中国人とチベットの旗を持った日本人との小競り合いも起きていたようだ。そういう様子も時々流れたし、すさまじい数の中国国旗が林立し中国語で叫ぶ様子も報じられた。
 それにしても、中国国旗の数はすさまじい。オーストラリアのキャンベラでは1万人以上の中国系の人々が集まってきたといい、大使館が関与して留学生を動員したと伝えられているが、日本でもおそらくはかなりの組織的な動員が行われたのだろう。留学生たちはそれなりに日本語はできるだろうに、中国語で叫んでいたところを見ると、聖火ランナーに向けられた声援ではなく、愛国心と中国パワーを誇示するシュプレヒコールのように聞こえた。中国としては、国家の威信を保ったつもりかもしれないが、まさに数は力なりで、力による威圧に、怖さを感じたり不快感をもった日本人はかなりいるはずだ。
 おそらくチベット人たちは、激しいパフォーマンスをしなかったのだろう、彼らが平和的に訴えている様子は、あまり紹介されていなかった。
 聖火リレーのスタートと併せて、善光寺では騒乱の犠牲者のための法要が営まれていたが、その様子もわずかしか伝えられない。まったく触れていないニュース番組もあった。新聞も、朝日新聞は善光寺の法要については、見出しすら立てず、写真も掲載せず、記事の中でさらりと触れただけだ(ただし、読売新聞は写真付き2段見出しを立て、NHK7時のニュースでは法要に参加したチベット人の感謝の言葉も流していた)
 善光寺がスタート地点を辞退したことで、日本の中にもチベット問題に心を痛めている人が少なくないことが、世界に発信された。暴力や法律違反を伴うアクションはできないし、したくないが、何らかの意思表示はしたい――日本人の中にはそう考える人は少なくないだろう。善光寺の一連の対応は、そうした思いを象徴しているのではないか。この日の法要も、一つのお寺の宗教行事としての意味合いを超えて、多くの人々の願いが込められたものと言えるだろう。
 けれども多くの報道では、静かに営まれる法要より、逮捕者が出るアクシデントが優先される。淡々と行われる事柄よりも、(いろんな意味での)力の行使に注目が集まる。
 それは、ジャーナリズムの性(さが)とも言えるし、人はみなそうしたもの、とも言えるだろうが、非暴力を訴えながら暴力沙汰にならないとなかなか目を向けない矛盾を、せめてもう少し意識したい。
 
 とはいえ、チベットでの騒乱、そして各国の聖火リレー中の様々な出来事は、これまでチベット問題にとりたてて関心のなかった人たちにも、考えるきっかけを与えた。
 大切なのは、この関心を継続していくことだと思う。聖火が日本を去っても、チベット問題が解決するわけではないのだから。
 中国が、すぐに外国人ジャーナリストの自由な取材を認めるとは思えない。当面、現地で何が起き、何が起きているのかは、私たちの目に見える形で伝わってくることはないだろう。けれども、見えないからといって、問題がなくなったわけではない。断片てきかもしれないし、時間はかかるかもしれないが、様々なルートを通じて情報は伝わってくるはずだ。
 魯迅は書いている。
<これは事件の結末ではない。事件の発端である。
 墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない>
 これまでに、どういうことが起きてきたかを知り、断片的な情報をつなぎ合わせながら、想像力で補っていけば、問題の姿形は私たちの心の中に浮かび上がってくるだろう。
 
 中国政府は、長野での聖火リレーの前日、近いうちにダライ・ラマ法王の私的代理人との会談を再開するとの発表をした。
 悪い知らせではないが、とりたてて大きなニュースとも思えない。
 国際社会に向けてのパフォーマンスにすぎない、という指摘もある。
 にもかかわらず、各国政府は早々とこの発表を大歓迎している。
 アメリカは国務省の報道官が、「勇気づけられるステップだ」と発言。EUは、欧州委員会のバローゾ委員長が訪中している間に、この決定が発表されたことを評価した。
 日本政府も大歓迎。高村外相が記者会見で期待と歓迎を表明した。報道によれば、日本政府は「日本政府の働きかけが功を奏した」と喜んでいるらしい。誰も褒めてくれないので、せめて自分で自分を褒めようというのだろうか……
 どこも、少しナイーブすぎはしないか。できれば中国との関係を悪くしたくない各国首脳が、とりあえず拳をおろす理由をくれた中国政府に感謝している構図を見せられているような気もする。
 来月、胡錦涛国家主席が来日する。日本政府には、「中国が同意すれば、同じ時期にダライ・ラマ法王を日本に招いて、両者の会談の場を提供する用意がある」くらいのメッセージを発してもらいたい。
 今回の中国の発表を、国際社会の批判をかわすためのポーズに終わらせず、実のある対話を実現するには、外からの視線が注がれていることが大切だ。人々の関心が薄まれば、この問題はまた棚上げにされてしまうに決まっている。
 オリンピックが終わって聖火が消えても、世界の人々の関心は消えない――そう中国政府が意識した時に、事態は動き出すだろう。
 そういう日が来た時、非暴力が暴力に勝てることを、私たちも実感できるのだと思う。
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