元厚生次官宅連続襲撃事件を考える

2008年11月25日

 事件は、まだ謎の部分が多い。容疑者が語る動機は釈然としないし、本当に単独犯なのかも未だ確信がもてない。
 それで思い出されるのは、オウム真理教に対する強制捜査の真っ最中に、衆人環視の中で教団ナンバー2の幹部が殺害された事件だ。実行犯は現行犯犯逮捕され、有罪判決を受けたが、彼に指示をしたと言われた人物は無罪となった。
 また、この時期に警察庁長官が狙撃された事件では、犯人はオウムに違いないという先入観が、捜査の方向性を誤らせたように思う。これも未だに真相は闇の中だ。
 真相が分からないければ、後々まで様々な憶測を呼ぶ。今回の事件では、そのようなことにならぬよう、捜査機関には予断や先入観を排除し、様々な角度から真相解明を図ってもらいたい。
 メディアも、そこに関わっている私たちも、あらぬ方向に世論を誘導したりしないように気をつけなければならない。
 常識では理解ができにくい出来事に直面すると、私たちはあれこれとその裏を読んだり、意味を解釈したりして、なんとかその現象を理解しようとする。あらゆる角度から検証することは必要で、その努力はいいとしても、変に深読みして、あらぬストーリーを作り上げてしまうことも、しばしばある。
 オウムの事件でも、あの非常識な集団の常軌を逸した行動を、検察官も裁判官も、なんとか自分たちの経験と常識と理性で理解をしようと努めた。その結果、たとえば個々の実行犯の動機などは、実態とは違った形で結論づけられた感じがする。オウムの非常識な現象を社会の常識の枠に押し込めようとしても、無理が出てくる。非常識は非常識のまま直視して、なぜそういう非常識が生まれたのかを考えた方がいいような気がした。
 最近では、三浦和義氏がロサンゼルスで自殺した後、彼がかぶっていた帽子に書かれた文字の”解読”が盛んになされた。"PEACE POT MICRODOT"が「あばよ」を意味するスラングだとして、自殺を暗示するメッセージだという”解釈”が盛んに報じられたが、英語を話せない三浦氏が、そういうスラングを知っていたというのも変な話だ。と思っていたら、三浦氏の友人が、髪を染めていたのに、サイパンでの勾留中に髪が伸びて白髪が目立つようになったので、移送中にどうせ写真を撮られるだろうからと、所持品の帽子をかぶって白髪隠しをしただけで、そこに書いてあった文字に意味はないはずだ、という趣旨の発言をテレビ番組でしていた。こちらの説明の方がすんなり納得がいく。三浦氏の自殺は、それ自体がなかなか受け入れにくい出来事だった。こんなふうになかなか理解しがたい事柄に出会うと、その真相を知ろうとするあまり、意味のないことにも何か意味を探してミスリードする失敗を、しばしば私たちはしでかす。
 今回の事件では、年金制度のエキスパートである二人の元厚生次官が狙われたことから、年金問題にかこつけたテロ事件ではないか、という見方が事件発生当初のメディアで大きく報じられた。
 しかし、小泉毅容疑者は出頭する前に複数のメディアに対するメールや掲示板の書き込みなどで、冒頭に「今回の決起は年金テロではない!」と、メディアの見方を否定している。
 その後の供述では、「大学に入って学んでみたら官僚が国を動かしていることが分かり、高級官僚が悪だと分かった」とも述べているようだが、ならばなぜ厚生労働省なのだろうか。国を動かしている官僚と言えば、厚労省よりもむしろ財務省の存在が大きいはずで、厚労省の元次官ばかりを狙った理由としては妙な感じがする。
 「テロ」「テロリズム」の定義はいろいろあるようだが、「政治的な目的」と「暴力やそれに類する脅威」の2要素は不可欠ではないのか。政治家や行政官を狙った暴力でも、私怨や自己顕示のためであれば、テロの範疇ではない。主な動機を「犬を殺処分された」としている今の時点では、テロ事件と呼ぶのはどうか、と思う。
 しかも、供述の中で、厚労省次官経験者とその家族ばかり10人前後殺害する予定だったという話も出ている、とのことだ。最初に山口剛彦さん、次に吉原健二さんの自宅がターゲットになったのは、いずれも小泉容疑者宅から20〜30分と近くで、閑静な住宅街の一戸建てだったので襲いやすかった、ということらしい。
 要するに、小泉容疑者の意図としては、年金は無関係で、厚労省のトップであれば「誰でもいい」ということのようで、ますます「政治的な目的」からは遠のく。
 にもかかわらず、事件はすでに一定の”テロ的効果”を生みつつある。厚労省などいくつかの省庁が幹部の名簿の公表をとりやめるなど、国民への情報開示が後退するほか、事件の直後、かつて厚生大臣を経験した津島雄二・自民党税調会長がこんな発言をした。
「厚労省の仕事をほとんど評価できないような論評のために不満が爆発し、今回の理不尽な行為につながったとすれば残念だ」「責任があるのは『あれが悪い、これが悪い』という国会の議論だ。そういう風潮を作るマスコミも考えてほしい」
 事件の5日ほど前に奥田碩・トヨタ自動車相談役が、厚労省を批判するメディアについて「マスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうか」と恫喝する発言をしたことも相まって、厚労省への批判が控えめになっている気もする。やみくもに官僚叩きをすることはないが、行政への監視はメディアの役割の一つであり、特に厚労省は年金、介護や医療、雇用など、国民の命や生活に直結する仕事をしている分、むしろ厳しい目にさらさせれてちょうどいいくらいである。
 年金にしても、責任の所在が明確でなく、事実が五月雨式に判明するなどすることで、問題がいつまでも尾を引いている。アメリカのように、問題が発生したら、すぐに議会が責任者を呼びつけ、厳しく追及して事実の解明や責任の所在をはっきりさせるということになれば、次のステップも早い。今回の金融危機でも、グリーンスパン前連邦準備制度理事会議長が下院の公聴会で、サブプライム融資や証券化について野放図な拡大を許したことを追及し、グリーンスパン氏も過ちを認めた。
 ところが日本の場合、個人の責任が追及されず、問題の所在を確認するのにも時間がかかる。それこそが問題なのであって、批判的な報道や論評を許さないと政治家や大スポンサー企業などが圧力をかけるのはもってのほかだ。だが、大スポンサーの発言に恐れをなしたのに加え、今回の事件の衝撃を配慮してのことだろう、奥田氏や津島氏に対する批判は大きな声にならない。厚労省批判につながる報道は控えめで、メディアの”気遣い”が伺える。これが長引くようなら、非常に問題だ。
 事件そのものはテロではなくても、事件が情報開示を後退させたり、ジャーナリズムの自己規制につながる、”テロ的効果”を生じるような事態は、なんとしてでも防がなければならない。
 
 ところで、前述のように事件は分からない部分がまだまだ多く、情報も限られている。ただ、今報じられている事実の範囲内で犯人像をイメージすると、そこはかとなく秋葉原の連続殺傷事件と似た”におい”が漂ってくる。
 生身の対人コミュニケーションが下手。ネットの世界に逃げ込んでも、人間関係がうまく築けない。孤独感を募らせ、自分の人生がうまくいかないのは、すべて自分以外の誰かのせいだと、責任の所在をもっぱら他者に求め、被害者意識を募らせる……。
 秋葉原事件の加藤智大被告が残した大量の書き込みには、自分の不遇は、すべて「彼女がいない」せいであり、彼女ができないのは、「不細工」な顔のせいであるとの恨み言がたくさんあった。つまり、自分の不幸の元凶は、「不細工」に生んだ親にあるということになる。加藤被告は、取り調べの課程でも、親に対する不満をぶちまけていた、という。
 無差別殺傷は、派遣労働の不安定な環境に自分を置き去りにした社会に対する意趣返しであると同時に、こうした社会的に衝撃を与える事件を引き起こすことで、親に決定的なダメージを与えるという理不尽な復讐をしたようにも見えた。
 今回の小泉容疑者の場合はどうだったのだろうか。「犬を殺された」ことへの恨みが事実なら、犬を保健所に連れて行った親に対しても何らかの屈折した感情があるはずで、事件後に彼が実家に宛てて送った手紙の内容が気になる。
 とはいえ、彼が46歳に至るまで、常にこの恨みを意識し続け、いつもこの恨みに支配された状態で生きてきた、というわけではないだろう。そもそもそういう恨みが元厚労省次官や家族に向く発想も分からない。「子どもの頃に犬を殺された」という話は、元次官殺害の動機としては、やはりあまりにも突飛すぎる。他に何か大事なことを隠しているのではないか、という推測が飛び交うのも、この理解しにくさゆえだ。メディア宛てのメールで、彼は被害者のことを「マモノ(元官僚)」と書き、供述でも「平気で命を奪う魔物」と述べているらしいが、日常的な用語とは言い難い「魔物」という表現を使うところに、現実離れしたスピリチュアル系の影響や妄想の気配を感じなくもない。
 警察は、まずは彼が真の動機を隠しているという前提での追及や捜査を、全力で行ってもらいたい。そうでないと真相が解明できなかったり、後から様々な憶測を招くおそれがある。ただ、その一方で、この非常識極まる説明が彼の本心なのかもしれない、という観点からの分析も、同時にしていく必要がある。突飛だから、非常識だからといって、排斥してしまうことはできない。犯罪が非常識であればあるほど、その実行者の発想も非常識であるとも考えられ、常識人が納得する理由探しばかりしていると、本当のところが分からなくなる可能性もあるからだ。
 犬の殺処分が彼の中で重大な意味を持つのであれば、この出来事と厚生次官経験者という全く関係ない二つが、なぜ、どのようにして34年の歳月を飛び越え、一挙に結びついてしまったのだろうか。もしかして、彼自身の中でも、当初はどこにぶつけていいのか分からないまま、自分の人生がうまくいかないもやもやとした不満や怒りを募らせていたのかもしれない。それが何かのきっかけで、犬を巡る出来事が彼の中で膨らんで、次第に重要な意味を持っていった可能性もあるのではないか。問題は、そのきっかけが何か、だ。
 彼は、人間関係がうまくいかず、職を転々とした末に、10年前にさいたま市内に転居してから実家との音信を絶っていた、という。この間、働いている気配がないのに家賃の滞納は一度もないというのも不思議な話だ。この10年間の生活実態や人間関係を明らかにすることで、彼の思考回路を解読したり、その供述の真偽を判断し、別に「真の動機」があるのか否か、他に事件に関与した者がいるのかどうかを知る手がかりが得られるように思う。
 それにしても、秋葉原の事件と今回の事件は、今の日本のありさまを改めて見せつけた、と言えるのではないか。人が地域や企業など、ひとところに安定して所属することができにくい。個人情報保護法と「法令遵守」を第一に考える風潮が、人々のつながりをさらに希薄にしている。「自己責任」が強調され、誰もが自分の身を守るので精一杯。電子機器の発達など様々な商品やサービスの開発は、一人ひとりの個の需要に対応するように進められているので、便利さと引き替えに、他者との「共有」という体験が希薄になってきている。こんな風に世の中の流れが、個が分断される方向へと動いていて、素粒子化した個がこの社会を浮遊している。
 秋葉原事件の加藤被告が、まさにそうだったし、小泉容疑者も少なくとも現実社会の中で安定して帰属する場があったようには思えない。さいたま市のアパートには10年間住んでいるようだが、近所ともトラブルが多く、地域とのつながりも感じられない。
 ネットや携帯電話で、いつでも人とつながっていられるように見えて、その実、どこにも帰属意識が持てず、生身の人間関係が築けない人の孤立化は進む一方だ。たった一人で不満を募らせ、苛立ち、理不尽な怨念を増幅させ、自分の不遇の元凶を誰かに求めようとしている者は、私たちの隣にもいるかもしれない。
 
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