裏付け取材〜『週刊新潮』の誤報について

2009年04月25日

 『週刊新潮』が朝日新聞阪神支局襲撃事件の実行犯を名乗る男の「告白手記」について、ようやく誤報を認めた。
 とはいえ、10ページに及ぶ早川清編集長名の記事のタイトルは<「週刊新潮」はこうして「ニセ実行犯」に騙された>。
 「裏付け取材の不足」を認めつつも、オレオレ詐欺ならぬ「オレオレ犯人」詐欺に騙されたという被害者意識が抜けないらしい。その内容も、極寒の倉庫の中を証言を裏付ける資料をがんばって探した(でも見つからなかった)話や、関係者の生活の平穏を考えて取材は断念したという言い訳などの羅列だが、島村氏なる証言者の話を「嘘と断定できるものは1つもなかった」ことでズルズルと話に引き込まれていったありさまは、それなりに分かる。
 どうも早川氏らは、この島村氏の方から金銭を要求したことがなく、売名目的でも、覚醒剤中毒などによる妄想でもなさそうなことから、彼に信頼を寄せ、裏付けがとれないことに「首を傾げ」たり「肩を落としていた」りといった”自然な”態度に、妙な連帯感さえ抱いていったようだ。
 しかし、世の中には、様々な目的で、事実と異なる話をメディアにしたがる人は結構いる。
 金銭要求がないというが、一杯の酒、一晩のねぐらのために途方もない嘘をつく人はいる。編集部は刑務所から手紙を寄越す男に対して、1回1万円を10回ほどを送ったというが、この時点で「いいカモ」と思われていただろう。おまけに、わざわざ出所の日に記者が出迎えに来てくれた。その日から、どう生活したらいいのか全くアテがない男にとっては、とりあえず当面の衣食住の提供者が現れた格好だ。彼が、長期的に物事を考えて、自分の自立を考えるのではなく、その日さえよければ、次のカモを見つければいい、それがダメなら刑務所があるという刹那的な人間であることは、編集部が原稿料名目で謝礼を払っても、「すぐに使い果たしてしまう」という早川編集長の文章からもよく分かる。
 出所から4ヶ月近く衣食住の面倒を見てもらい、「原稿料」という名の小遣いももらい、「島村氏」としては、週刊新潮編集部は予想外の”上客”だったということだろう。
 これが一般市民なら、詐欺の被害者で済むかもしれないが、この手の詐欺師には慣れているはずの『週刊新潮』編集部が、かくもコロリと騙されたのには、多くの人が驚いたらしい。何しろ、「島村氏」は他にもいろんなメディアに事件を「告白」する手紙を送りつけていたらしいが、引っかかったのは『週刊新潮』だけだったらしい。
 元『週刊文春』編集長の花田紀凱氏(現『WiLL』編集長)は、産経新聞のコラムでこう書いている。
<この長い手記を読んでも、しかし取材の厳しさには定評のあった『新潮』ともあろうものが、なぜ、こんなインチキ男にコロリと騙されたのかがいっこうにわからない>

 私も、「なぜ、あの『週刊新潮』が……」と思う半面、「やっぱり…」という気持ちもあった。
 というのは、最近の同誌には危うさを感じていたからだ。
 『週刊新潮』は、1月に楽天の三木谷浩史社長から名誉毀損として訴えられていた裁判で990万円の損害賠償を、野中広務元衆院議員から起こされた裁判で110万円の損害賠償をそれぞれ福田康夫前東京地裁に命じられ、さらに2月にも貴乃花親方から起こされた裁判でも敗訴している。この時の判決では、新潮社だけでなく、同社社長や同誌編集長個人の責任も認定し、経営者に対して名誉毀損を防ぐための研修制度や記事のチェック体制を整備するよう求めた。つまり、同誌は裏付けが不十分なために名誉毀損で敗訴が続いていて、その改善を裁判所から強く求められるほどだったのだ。
 さらに私の個人的体験として、松本智津夫の4女の「手記」が掲載された時。彼女が私の元にいたことを知っていながら、話の内容を確認するための問い合わせが、一度もなかったのには驚いた。おそらく、何も裏付け取材をすることなく、当人の言うがままに(つまり当人の都合のいいように)編集部が原稿を書き、掲載したのだろう。どうやらこの時は彼女の売り込みで「手記」掲載となったらしいし、彼女が江川に問い合わせをすることはしないで欲しいと熱望したのだろうが、それならばなおのこと、何らかの形で裏付けをするのが、メディアとしてあるべき姿のはず。同社には、私のことをよく知っている記者もいるのだから、何か理由を作って私を誘い出し、例えば一緒に食事をしながら、取材と気取らせずに確認を行うということだってできた。それさえやらない同誌の対応に、「いったい『週刊新潮』はどうなっちゃったんだろう」と気になっていた。かつては、そういう手間ひまを惜しむメディアではなかったはずなのに、いつの間にか、すっかり様変わりしてしまったような感じがした。

 今回の「告白手記」に関しても、4回にわたった連載の一回目の記事を読んだ時、肝心の事件の中身に入る前に、「これは眉唾」と感じた。それは、この「島村氏」が朝日新聞社に、犯行「告白」の手紙を送りつけた後、記者が刑務所に面会にやってきた時の描写があまりに嘘臭かったからだ。「手記」では、二人の記者がやってきて、一方が会うなり高飛車に詰問しと述べ、さらにこう続く。

<若い記者が仕切りのアクリル板をドンドン叩き、
「あんたね、うちの小尻を殺しといて、何だよ、その態度は! うちの小尻がなに迷惑かけんだ」
 喧嘩腰で怒鳴るのです。私はこう言うしかありませんでした。
「悪いけど、この件についての話はないよ」
 それでも、若い記者の態度は全然変わらない。私が話すのも嫌になって横を向いて無視していると、
「返事くらいしたっていいでしょうが!」
 あまりに興奮しているので、さすがに隣にいた年配の記者が、
「もういいから、座れよ」
 そうやってなだめても、立ったまま私を見下ろしているのです。
 そんな状態のままで午前中の2時間は過ぎて、いったん食事休憩。その後、また面会室に呼ばれ、さらに2時間です>

 刑務所では、職員は所内の秩序と受刑者の心情の安定に、何より気を遣う。朝日の記者がこんな態度を取れば、立ち会いの看守が黙っているはずはなく、たちまち面会は中止になるに決まっている。
 それに、事件の真相を知りたいと調査を続けている記者が、いきなり”情報提供者”を怒鳴りつけるなんて、ありえない。
 私自身、オウムによる坂本弁護士一家事件について、似たような経験があるので、この男の話を聞きに行った朝日記者の心情は分かる。事件を起こしたことに対する怒りよりも、なんとか真実の断片を引き出したい、という思いの方が話を聞く時にははるかに勝っていたはずだ。
 あまりにも現実離れした描写に、私はこれ以上「告白手記」を読む気をなくしたほどだ。
 
 その一方で、「島村氏」の話に引き込まれてしまった『週刊新潮』取材班の気持ちは分からなくもない。
 というのは、この坂本弁護士一家事件についての取材で、実は私も同じような失敗をしそうになったからだ。それは地下鉄サリン事件より前のこと。「坂本弁護士一家事件の犯人を知っている」という男が現れた。警察の捜査は膠着状態。そんな中、男が「子どもは生きている」と述べたので、私はこれが事実であって欲しいと願いながら話を聞いた。
 朝日襲撃事件のような大型の特ダネを”告白”された『週刊新潮』の記者や編集者も、その点では似たような心境だったのではないか。話が本当であって欲しいという思いが強いと、ついつい情報提供者の話を過信しがちになる。
 だから、こうした時こそ、別のスタッフによる確認取材が重要になる。
 私の時は、『週刊文春』の若い記者たちが全国を飛び回って、私が男から聞いた話の確認を行ってくれた。しかし、男の話の裏付けは取れなかった。
 そのことを突きつけると、男は残念がり、部分的に微妙に話を変えたり、裏付けができない理由を語ったりした。その後、新たに聞いた話をもとに、記者たちがまた確認に走ったが、やはり裏付けはとれなかった。
 何度もこの作業を繰り返し、最終的に編集部は男の話の掲載を見送った。
 男の話は、部分的にとても具体的だったが、肝心なところは言い淀んだり、しゃべりたがらなかった。私は、それを「彼は犯行の現場に居合わせただけでなく、もっと深い関与をしているために、自分が罪に問われることを恐れているのではないか」とか「オウムに報復されることを怖がっているのではないか」と考えた。すでに、男がマスコミで仕入れた話を元に一から十まで嘘を述べ立てている、とは思わなくなっていた。裏付けがとれないということは、男の話のすべてが真実とは思えないが、どこかに真実が潜んでいる、これがいずれ真実につながっていくという思いで、懸命に話を聞いていた。事件に関与し、その後長らく逃げ隠れし、今なお素直に白状しない男に対する憤りより、なんとか真実の断片を聞き出したいという思いで私の頭はいっぱいだった。
 その一方で、裏付け取材をしている記者たちが、きっちりと仕事をしていることも分かった。私は、編集長の判断に納得はしたが、それでも「何かを知っているのではないか」という未練があった。それで、その後もしばらく、男との接触を続けた。というより、向こうが時々、私に接触してきた。たぶん、目的は金だったと思う。が、多額の現金を要求するわけではなく、「○○に話をするよう説得に行きたいんだが」という相談だったりするので、そういう時には、「9割方うそだろうな」と思いつつも、旅費としていくばくかの金を渡したことはある。

 今回の『週刊新潮』の問題では、新聞各紙は情報提供者に金を払ったのか、いくら払ったのか、ということに注目した。
 たとえば朝日新聞。4月9日付の一面にこの問題を取り上げた記事のメインの見出しは、<新潮、襲撃手記に90万円>。そして、<証言者「記事はウソ」と主張>がサブの見出しになっている。「90万円」の方が、中身が「ウソ」というより大きな問題として扱われているのに驚く。社会面でも、わざわざ「朝日新聞では原則、情報の提供には対価を渡さないことにしている」と強調しているところを見ると、金を払う=問題のある取材という考えなのだろう。
 しかし、蛇の道は蛇、という。犯罪者に関する情報を持っている者が、正義感などの善意だけで証言や告発をするとは限らない。そのために仕事ができなくなったり、身に危険が及ぶ場合もありうる。そういう時に、何らかの名目で一定の金銭を渡すことは許されないことなのだろうか。
 ただし、謝礼や便宜供与がなされた時は、それ目当てで質の低い情報や事実無根の売り込みがある可能性が、大いにありうる。だからこそ、何も提供なされなかった場合以上に、慎重に事実の確認がなされなければならない、ということなのだと思う。

 何はともあれ、私に坂本事件の現場に居合わせたと述べた男が語ったことはすべて嘘だった。
 私は、記者たちの地道な裏付け取材のお陰で、誤報をせずに済んだ。それは、坂本事件について何とか糸口を見つけたい思いで男の話を聞き続けた私と、そういう思い入れを持たず、男とも距離をもってもっぱら裏付けに徹する記者たちと、それをデスクや編集長が冷静に判断するというように役割分担がうまくいったためだったと思う。
 一方、『週刊新潮』の取材班は、早川編集長の他はデスクと記者1人の総勢わずか3人だったという。これでは実際には、デスクがかなり取材に関わったとしても、本人の話を聞くのも、裏付けを行うのも、周辺取材もやるのも、一人の記者がフル回転の状態だっただろう。自分で聞いた話の裏付けを自分でやるのでは、どうしても都合のいいように解釈しがちだ。もし、坂本事件の取材をしていた頃の私自身を思い起こすと、とても自分が聞いた話を、自分自身でちゃんと検証できたかどうか、自信がない。
 だから、「告白手記」を担当した記者個人を責めることは、私にはできない。
 だが、『週刊新潮』は、こんな大事な記事のために、なぜもっと人を投入しなかったのだろうか、という点は気になる。
 早川編集長は、読売新聞の取材に対して、「今回はスクープだという認識があったため、関係者を極力少なくしたいと判断した」と述べている。秘密が漏れて、特ダネでなくなってしまうことを恐れなければならないということらしい。編集長が、情報漏れを心配しなければならないような編集部内の信頼関係だったのかもしれない。
 だが、それだけだろうか……。
 
 本来、雑誌の編集部の一番大切な仕事は、情報が真実であることを確認する作業と言っても過言ではない。
 その結果、報道できればまだしも、坂本弁護士一家事件の時のように、掲載や放送を見送ることになれば、裏付けにかけた多くの時間と手間と経費は、無駄のように見える。しかし、これは信頼できる報道をするためのコストなのだ。だが、そのコストを嫌う風潮が、同誌の中にあるのではないだろうか。その結果が、このところ相次ぐ裁判での敗訴につながっているように思う。
 
 今回の誤報が起きた原因を明らかにするには、こういう根っ子のところまで調べ、分析するべきだ。そうでなければ、次に生かすための教訓も得られなければ、組織を改善することもできない。失われた信頼を取り戻すことも、難しいだろう。
 しかし、『週刊新潮』は編集長名の記事ですべてを終わらせ、記者会見も行わず、第3者を入れての検証も行わなければ、関係者の処分もない、という。新聞社の取材には応じたが、一社一人で写真撮影は拒み、テレビ局の取材は断った。なんと早川編集長は、この謝罪(?)記事を載せた号を最後に、同誌と『新潮45』の担当取締役に栄転するのだという。同誌の信用を失墜させた編集長を、その雑誌のスーパーヴァイザーになるというのは、いったいどういう了見なのだろう。新潮社の経営者は、問題の深刻さを認識できないのか、どうせみんなすぐ忘れると読者をバカにしているかどちらかだろう。
 しかも、早川編集長名の記事では事件の被害者や朝日の記者など「告白手記」によって貶めた人たちや遺族への謝罪が一切ない。その後、遺族に対しては、そっけない謝罪文が送られたらしいが、事件現場にいた記者や「島村氏」の取材を行った記者などに対しては何も謝っていないようだ。『週刊新潮』はこれまで、犯罪被害者の立場を重視し、被疑者・被告人の権利を訴える弁護士や学者、メディアの記事を批判してきた。自身が、被害者を愚弄する記事を載せてしまった時に、誠意ある対応をとらないのでは、これからいったい犯罪に関してどういう姿勢で記事を書くつもりなのだろう。同誌編集部の記者たちは今、とても困惑しているのではないだろうか。”天敵”の朝日新聞の関係者に頭を下げるのが嫌だという変なプライドなのかもしれないが、そういうつまらない沽券のために自分たちの媒体の信頼を地に落としていいのだろうか。間違った時には、潔く謝ってこそ、次の展開に進めると思うのだが、こういう態度ではいつまでも尾を引いてしまうだろう。人を批判しても、「どの面下げて」と思われるのがオチだ。
 抜群の取材力があり、むしろやり過ぎて問題になるほどだった『フォーカス』を潰した頃から、新潮社の姿勢には疑問を感じていたが、今回の対応を見ていると、同社の経営者は、信頼を失うことの重さをまったく分かっていないとしか思えない。 
  
 
 さらに気がかりなのは、情報の質や精度を高めるために手間や人手や時間や費用をかけるのを厭う風潮は、新潮社だけでなく、広くメディア全体に広がってきているように思えることだ。
 たとえば、岐阜県庁の裏金問題を報じた、日本テレビの報道番組『真相報道バンキシャ!』。報じられた内容が虚偽であることが明らかになり、情報提供者は嘘の証言をしたことで偽計業務妨害罪で逮捕・起訴され、裁判で起訴事実を認めた。この番組の場合も、提供された情報への裏付け取材の不足が指摘されている。
  
 無駄を廃し、効率を最優先して生産性を高めようという発想は、製造業の工場だけでなく、あらゆる産業に広まり、浸透している。また、分かりやすく客観的に判断できる数字ですべてを評価しようとするやり方も、様々な分野で活用されている。メディアの世界も、例外ではない。
 できるだけ少ない人手と経費で誌面や番組を作ろうとする。その評価は、部数や視聴率、読者アンケートによる人気投票などで測られる。
 このところの経済危機の影響で広告収入が冷え込んでいるメディアは、どこも番組にかける人手や経費を一段と切り詰めているようだ。効率よく、手間や時間や人手や金をかけずに、より高い視聴率の取れる番組を作り、思わず雑誌を手にとって販売部数を高められるような企画や刺激的な見出しをつけるように努める。だから、現場で働いている人たちは、とても忙しく、余裕がない。
 しかし、雑誌やテレビでは、一見無駄に思えることが、ずっと後から役に立ったりすることも多い。ふらりふらりと街を歩いたり、飲み屋でおしゃべりをしたり、特に用がなくてもいろんな人たちとあったり……。そういう中から、企画が生まれたり、人の繋がりができてここぞというときに情報やコメントをもらったりすることはしばしばだ。
 本来、この分野の仕事には、「効率」という言葉はそぐわない。「無駄」の積み重ねで成り立っていると言っても過言ではなく、それによって「信頼」も築かれている。視聴率や人気投票での投票数が多い番組や記事は、多くの視聴者や読者を獲得していて、作り手としてはうれしいとはいえ、それがイコール「いい番組」「いい記事」とは限らない。そうやって数字を意識している一方で、「信頼」のように数字では表しにくいものは、どうだろうか。失って初めて意識するという風になりかねない気がする。
 
 このようなメディア界の変化の背景の1つに、インターネットの普及によって、人々が得る情報が多様化したことがあげられるだろう。特に、インターネットを利用すれば情報はタダで手に入るのが当たり前のような錯覚が、蔓延していることが気になる。
 わざわざお金を出して新聞を購読したくはない。NHKの受信料も払いたくない。ましてや雑誌なんて……インターネットや携帯でタダで手に入る情報で間に合うと考えている人たちは確実に増えている。しかし、インターネットで手に入る例えばヤフーニュースなどは、新聞や通信社が人をかけ、経費を使って集めたものの一部が提供されている。
 そうした既存のメディアが情報源となっているもの以外にも、インターネットの世界では様々な情報がタダで飛び交っている。中には、様々な分野の専門家が、自分の知識や経験に基づいた貴重な情報を発信しているようなブログもあるが、それだって本当は元手がかかっている。しかもインターネットの世界では、それ以上に、事実に反する情報や偏見に基づいたコメントが流布されている。
 人々が、こういうメディアだけに情報を依存するというのは、とても危なっかしく感じられる。民主主義の社会がちゃんと機能するためには、きちんと事実を確認しできるだけ質を高めた情報を発信する媒体が数多くあることが大事だ。
 こうした信頼できる情報は、安上がりにはできない。このことを、メディアの経営者も、情報の受け手である読者・視聴者も、改めて認識するべきだ、と思う。

Copyright 2006 © Shoko Egawa All Right Reserved.
CMパンチ:ホームページ制作会社:港区赤坂