イスラエルとパレスチナ自治区に行ってきました
2009年06月01日
イスラエルはテル・アビブとエルサレムに滞在し、パレスチナの方は、ヨルダン川西岸の町や村をいくつか訪ねた。
最初に着いたテル・アビブは、ずいぶん国旗を目にする町だなあというのが第一印象。到着したのが、独立記念日から1週間ということもあって行事で掲げた旗が残っていたのかもしれないが、観光地のビーチにまで何本もの国旗がはためいている。自分の車に国旗を掲げている人も結構よく見る。
たまたま時間つぶしとトイレを借りるために入った小さな博物館では、写真で見覚えのあるイスラエル建国宣言の場を再現してあった。訪問者は、まず建国の歴史を紹介するビデオを見せられるが、そこまでの時間はなかったのでパス。展示資料の中に、イスラエルの独立を伝える各国の新聞があったが、日本は毎日新聞が貼ってあった。小学生たちが見学にやってきて、説明を受けていた。
後日、エルサレムでホロコースト記念館を訪れた時には、若い兵士が団体でやってきていた。ちなみに、この国には徴兵制があり、高校を出ると男は3年女は2年兵役の義務がある。町の中で兵士の姿を見ることは珍しくないし、レストランで銃を持ったまま昼ご飯を食べに来ている兵士もいる。
ともあれ、こうやって小さい頃から苦難と独立を”勝ち取った”歴史を繰り返し教え、愛国心を鍛え上げていくのが、この国の教育方針。ただし、その課程でパレスチナ人の土地を収奪したことや、今もパレスチナ人を迫害していることは伝えず、ひたすらイスラエルの正統性と過去の受難を教え込み、兵士として国を守る義務を叩き込む、ということのようだ。そんな国のあり方に疑問をもった複数の若者が「イスラエルの教育は、疑問を持たず、ひたすら従順な兵士をつくることが目的だ」と言っていた。
たまたま、ローマ法王の訪問と日程の一部がダブってしまった。セキュリティが何より優先するイスラエルのこと。法王の立ち寄り先は厳しい交通規制が行われ、様々な施設も閉鎖となった。エルサレムに到着した日、タクシーが目的地のかなり前で止められ、重いスーツケースを引きずりながら、段差の続く所をかなり歩かなければならず参った。
エルサレムでは、旧市街に泊まった。町ごと遺跡のような所。歩いて数分のところに、イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなった場所と言われる聖墳墓教会がある。そこに至るまでに、十字架を背負ったキリストが歩んだと言われるルートは、ヴィア・ドロローサと呼ばれる。ただ、その実態は活気のある商店街。これまで私は「ゴルゴダの丘」という名称から、町外れの小高い丘をイメージしていたので、かなり意外だった。
聖墳墓教会に至るまでに、キリストが倒れた所とか、様々な謂われのある場所に教会が建っている。捕らえられたキリストが入れられていた、といわれる地下牢もある。一番下の暗くひんやりした穴にバラバが入れられていた、とのこと。それを見た時、頭の中でバッハの《マタイ受難曲》の「バ〜ラバ」という合唱の声が響いた。
聖墳墓教会はキリスト教徒の聖地。キリストの墓があると言われる地下に入るためには、長い列に並ばなければならい。そこまでの時間はないので断念した。
キリスト教の聖地と言えば、一度蘇ったキリストが、40日間説法してその後で昇天したと言われるオリーブの丘にも小さな教会が建っている。
さらに、ユダヤ教徒の聖地である嘆きの壁があり、そのすぐ向こうにはイスラム教の開祖である預言者ムハンマドが昇天したと言われる場所に建つ岩のドーム、そしてアル・アクサ・モスクがある。このアル・アクサ・モスクに2000年9月にイスラエルのシャロン外相(後に首相)が多数の兵士を引き連れて押しかけてきたことにイスラム教徒が怒り、投石などで抗議。クリントン米大統領が仲介したキャンプ・デーヴィッドでの会談が不調に終わり、この2次インティファーダ(抵抗運動)とその後のイスラエルの武力行使によって、中東和平は遠のいた。
世界の3つの宗教の聖地が近接していると言われるが、実際に言ってみると、本当にそれぞれが近い。それなりにうまく住み分けて共存していた時期もあっただろうに……
アルカイダなどのテログループも、自分たちの行為をパレスチナ問題と結びつけて正当化していることを考えると、愛や救済を説く宗教の聖地から、しかもこんな近接した狭い地域から、世界の多くの人の命や生活が奪われる不幸が拡散していることに、何とも言えない思いにとらわれる。
西岸地区に行くのには、東エルサレムから出ているアラブバスに乗る。分離壁の建設問題でもめているビリン村にはラマラ経由で、やはり三宗教の聖地がありユダヤ人の入植者とパレスチナ人との対立が深刻なヘブロンにはエルサレム経由で行った。
パレスチナ自治区とはいっても、ユダヤ人が入植という形で次々にパレスチナ人の土地を収奪している。入植地はどんどん増殖し、そこに住むユダヤ人を守るためという名目で軍隊が侵出したり、分離壁が築かれる。この壁を作るために、また新たにパレスチナ人の土地が奪われる。ビリン村はすでに5割以上の土地を奪われた。毎週金曜日に地元の住民が非暴力で抗議のデモを行うが、それに対してイスラエル兵は力で対抗している。催涙弾やゴム弾を発砲し、村人たちを拘束し、けが人もたくさん出ている。4月には、地元住民のリーダー格だった青年が、催涙弾の直撃を受けて殺された。
青年は子どもたちにも人気があったそうだ。彼の死後、青年を悼む仲間が作った映像を見ると、やさしそうでたくましく、笑顔は人なつこい。村の中には、彼の写真があちこちに貼ってある。大事な人を殺された恨みは、子どもたちの時代にまで残るだろう。
彼が撃たれた場所に行くと、催涙ガスが辺りに染みついて、目がヒリヒリする。その場の写真を撮った途端、銃を構えたイスラエル兵が飛び出してきて、「写真を撮るな」「パスポートを出せ」とわめき始めた。案内してくれた住民が(こちらは丸腰)、「ここは我々の土地だ」「そっちこそIDを見せろ」と一歩も引かずに言い返す。
イラクでの米兵もそうだったが、ここのイスラエル兵も、撮られて報じられては困るようなことをしているから、カメラに敏感になるのだろう。私が持っていたのは、ホントに小さなデジカメだったのだが。
ヘブロンには3宗教の祖とも言うべき予言者アブラハムの墓がある(といわれている)。かつてはイスラム教の
モスクだったが、今では内部が二つに分けられ、片方はユダヤ教徒の教会となっている。というわけで、熱心なというか、パレスチナ人の住んでいるところも「神が我々の土地だといった」と平気で追い出す過激なユダヤ教徒たちにとっては、ヘブロンは「我々の土地」。500人のユダヤ人を3000人のイスラエル兵が守り、3万5000人のパレスチナ人を追い立てにかかった。その結果、パレスチナ自治区なのに、この地域の約2割はイスラエルの占領下に置かれている。
ユダヤ人はそれだけでは満足せず、パレスチナ人の地域にも入植を続けている。ユダヤ人たちは建物の上階に住み着き国旗を掲げ、路上に向かってゴミを投げつけるなどパレスチナ人に対して嫌がらせを行う。瓶や缶が上から振ってくるので、上階にユダヤ人が住み着いた所では、ケガをしないようネットを張ってある。そういう嫌がらせに耐えかねて、出て行くパレスチナ人も少なくないらしく、商店が閉まって、日本風に言えば”シャッター通り”と化しているところも。いびり倒して追い出そうという、これは大がかりな(しかも国がバックについた)苛めだ。
最近のガザ進行などでパレスチナ人の市民が殺されたりケガをしている報道も衝撃的だったが、パレスチナでは国際的に報じられる軍事行動だけでなく、日常生活の中でこうした悪質な苛めが日々横行している、ということなのだ。イスラエル軍の蛮行もすさまじいが、それは戦争や軍隊がもたらす狂気、と考えることもできる。しかし、こうした日常の苛めや嫌がらせは、どうしてここまで底意地悪くなれるのかと愕然とするほどだ。これは狂気ではない。悪意であり、醜い人種差別だ。
パレスチナ人を劣った人間とみる意識はは、こうした”熱心な”ユダヤ教徒ばかりではなく、程度の差はあれ、多くのユダヤ人が共有していると思われる。西岸地区から戻る途中のチェックポイントでは、バスから降ろされ、イスラエル兵のチェックを受けなければならない。
金属探知機のゲートでは、マイク越しに若いイスラエル兵があれこれ命令をする。まだ18歳か19歳の若い兵士が、自分の父親や母親より年長のパレスチナ人に対して、威張りくさった態度で指示をする。
そこまで厳しいチェックがない所でも、身分証明書が集められ、照会作業が行われる間、待機させられる。その結果、バスに乗ることを許されなければ、エルサレムに入ることはできない。ヘブロン帰りのチェックポイントで、妊婦とその母親らしい年配の女性が”不許可”となったようだった。二人は書類を見せ頼み込んでいる様子だったが、若い兵士は耳を傾ける様子はなく、何事かを言い捨てて後ろを向いてしまった。「ここから失せろ」と言ったそうだ。村に帰るにしても、身重の身で歩いて帰れというのだろうか。見かねてか、バスの運転手さんがいったん降りて二人にチケットらしいものを渡していた。せめてこれで帰りなさい、ということなのだろう。
チェックを受けるのは、パレスチナ人だけでなく、私たち外国人も一緒だ。ビリン村から戻る時のチェックポイントでは、私のすぐ前に、50代後半くらいのイギリス人の男性がいた。彼が金属探知機のゲートをくぐるたびにブザーが鳴り、何度もやり直しをさせる。若い女性の兵士が、居丈高に何事か命じている。ヘブライ語なので何を言っているか分からない。男性も分からないらしく、困り切った顔で、何度もゲートをくぐっている。どうやら兵士は「ベルトを取れ」と命じているらしい。英語で言えば男性も分かるだろうに。
この国の人の多くが、英語を話せる。もしこの女性兵士がベルトという単語すら出てこないとすると、高校時代はいわゆる”落ちこぼれ”だっただろう。そういう人が、ひとたび軍隊に入り、権力を持つと、今度は著しくその権力を誇示し、それを楽しむようになるのではないか。まさに、女性兵士の態度は、自分より年配の人間が言う通りに動くのを楽しみ、しかも男性がまごまごしているのを見て面白がっているようだった。イラクで見たアメリカ兵も、粗暴で威嚇的な態度で不愉快な思いをしたのは黒人兵だった。差別を受けている者、貧しい者が、ひとたび支配者として銃と権限を与えられると、被支配者に対してことさらに強い態度に出るのかもしれない。
エルサレムのホロコースト記念館に掲げられた膨大な写真の中に、怯えるユダヤ人を前にしたナチス・ドイツの兵士の一人が笑っている顔がとても印象に残っている。過去のナチス・ドイツ兵が、今のイスラエル兵だ。ユダヤ人たちは今、過去にナチス・ドイツにやられたことと同じようなことを、今度は自分たちがパレスチナ人に対してやっている。
ホロコーストの経験があるために、過剰なまでに防衛的になるのは分からないでもないが、自分たちが受けた人権侵害を他者に行うというのはどういうことなのだろうか。虐待を受けて育った子どもが長じて自分が親となった時に、子どもを虐待してしまうというのに近いのかもしれない。
若者たちが出入りするバーで会った、宗教的な家庭に育ったという女子高校生は、あっけらかんと、でもきっぱりと「アラブは私たちの敵」と言い切った。疑いを差し挟む余地はまったくなし、と言った調子。ユダヤ人は神から選ばれた民であり、それを非難する、アラブの人たちは許されないという自信に満ちている。彼女は、宗教的理由で兵役にも就かなくていいそうだ。軍隊に入ると知らない男性と接っするのは宗教的によろしくないから、だそうだが、それなのに夜遅くまでバーで飲んで若い男の子とおしゃべりするのはOKというのは、私にはどうしても理解ができなかった。
理解できたのは、パレスチナ人を殺したり虐待したりすることを平気な価値観ができあがってしまった彼女のような若者たちが他にもたくさんいて、それを変えるのは容易ではない、ということだ。
パレスチナ人の子どもには恨みが蓄積し、ユダヤ人の若者の中には選民意識が植え込まれている。
国際的非難が集まったガザ攻撃の間も、イスラエル国内のユダヤ人の9割以上が攻撃を支持していた。このユダヤ人たちの判断基準を変えることは果たしてできるのだろうか。
一方のパレスチナも、人々が大変な被害に遭っているというのに、今なおハマスとファタハの対立は続いているようで、一致団結してコトに当たるという状況になっていない。それぞれに言い分はあるのだろうが、端から見ていると、とてももどかしい。何とかならないのだろうか。
そんなことを考えていると、いるだけで神経が日々すり減っていくような気がした。本当に、この国は滞在するだけでヘトヘトになる。
そんな中でも、イスラエルが行っている占領政策やパレスチナ人に対する人権侵害に対して、声を挙げたり、行動を起こしたりしているユダヤ人も、数は少ないがいる。
パレスチナ人にアドバイスをしたり裁判に訴えて人権の回復に努めている弁護士、様々な形でパレスチナ人への支援活動を行っているNGO、徴兵を拒否して服役までした10代、占領地域で行った行動を公表する元兵士たち……
今回の旅では、そういう人たちにも何人も会うことができた。彼らの考え方や基準は一様ではない。それぞれが自分で考え、自分自身の基準を持って行動し発言をしている。
それに対して、裏切り者よばわりをする者もいる。現に侵略や戦争を続行中の国で、それに反対するのには、相当の勇気がいると思う。勇気を持って、声を挙げる人が次々に出てくる。それは、彼らが考える材料となる情報を容易に入手することができ、様々な立場で活動をしている団体がすでにあるからでもある。言論・報道・結社の自由というのは、いかに大事なのかを改めて思う。
また、立場は反対だけど、声を挙げ始めた人たちの判断は尊重するという人たちも少なくないようだ。
日本が、過去の軍隊の行動について語ることが依然としてとても難しいことであるのを考えると、イスラエルでの言論の自由は、制度としてだけでなく、社会の中に、人々の血肉に根付いているような気がする。この点に、希望を託したい。



たまたま時間つぶしとトイレを借りるために入った小さな博物館では、写真で見覚えのあるイスラエル建国宣言の場を再現してあった。訪問者は、まず建国の歴史を紹介するビデオを見せられるが、そこまでの時間はなかったのでパス。展示資料の中に、イスラエルの独立を伝える各国の新聞があったが、日本は毎日新聞が貼ってあった。小学生たちが見学にやってきて、説明を受けていた。
後日、エルサレムでホロコースト記念館を訪れた時には、若い兵士が団体でやってきていた。ちなみに、この国には徴兵制があり、高校を出ると男は3年女は2年兵役の義務がある。町の中で兵士の姿を見ることは珍しくないし、レストランで銃を持ったまま昼ご飯を食べに来ている兵士もいる。
ともあれ、こうやって小さい頃から苦難と独立を”勝ち取った”歴史を繰り返し教え、愛国心を鍛え上げていくのが、この国の教育方針。ただし、その課程でパレスチナ人の土地を収奪したことや、今もパレスチナ人を迫害していることは伝えず、ひたすらイスラエルの正統性と過去の受難を教え込み、兵士として国を守る義務を叩き込む、ということのようだ。そんな国のあり方に疑問をもった複数の若者が「イスラエルの教育は、疑問を持たず、ひたすら従順な兵士をつくることが目的だ」と言っていた。

たまたま、ローマ法王の訪問と日程の一部がダブってしまった。セキュリティが何より優先するイスラエルのこと。法王の立ち寄り先は厳しい交通規制が行われ、様々な施設も閉鎖となった。エルサレムに到着した日、タクシーが目的地のかなり前で止められ、重いスーツケースを引きずりながら、段差の続く所をかなり歩かなければならず参った。
エルサレムでは、旧市街に泊まった。町ごと遺跡のような所。歩いて数分のところに、イエス・キリストが十字架にかけられて亡くなった場所と言われる聖墳墓教会がある。そこに至るまでに、十字架を背負ったキリストが歩んだと言われるルートは、ヴィア・ドロローサと呼ばれる。ただ、その実態は活気のある商店街。これまで私は「ゴルゴダの丘」という名称から、町外れの小高い丘をイメージしていたので、かなり意外だった。
聖墳墓教会に至るまでに、キリストが倒れた所とか、様々な謂われのある場所に教会が建っている。捕らえられたキリストが入れられていた、といわれる地下牢もある。一番下の暗くひんやりした穴にバラバが入れられていた、とのこと。それを見た時、頭の中でバッハの《マタイ受難曲》の「バ〜ラバ」という合唱の声が響いた。
聖墳墓教会はキリスト教徒の聖地。キリストの墓があると言われる地下に入るためには、長い列に並ばなければならい。そこまでの時間はないので断念した。
キリスト教の聖地と言えば、一度蘇ったキリストが、40日間説法してその後で昇天したと言われるオリーブの丘にも小さな教会が建っている。

さらに、ユダヤ教徒の聖地である嘆きの壁があり、そのすぐ向こうにはイスラム教の開祖である預言者ムハンマドが昇天したと言われる場所に建つ岩のドーム、そしてアル・アクサ・モスクがある。このアル・アクサ・モスクに2000年9月にイスラエルのシャロン外相(後に首相)が多数の兵士を引き連れて押しかけてきたことにイスラム教徒が怒り、投石などで抗議。クリントン米大統領が仲介したキャンプ・デーヴィッドでの会談が不調に終わり、この2次インティファーダ(抵抗運動)とその後のイスラエルの武力行使によって、中東和平は遠のいた。
世界の3つの宗教の聖地が近接していると言われるが、実際に言ってみると、本当にそれぞれが近い。それなりにうまく住み分けて共存していた時期もあっただろうに……
アルカイダなどのテログループも、自分たちの行為をパレスチナ問題と結びつけて正当化していることを考えると、愛や救済を説く宗教の聖地から、しかもこんな近接した狭い地域から、世界の多くの人の命や生活が奪われる不幸が拡散していることに、何とも言えない思いにとらわれる。
西岸地区に行くのには、東エルサレムから出ているアラブバスに乗る。分離壁の建設問題でもめているビリン村にはラマラ経由で、やはり三宗教の聖地がありユダヤ人の入植者とパレスチナ人との対立が深刻なヘブロンにはエルサレム経由で行った。
パレスチナ自治区とはいっても、ユダヤ人が入植という形で次々にパレスチナ人の土地を収奪している。入植地はどんどん増殖し、そこに住むユダヤ人を守るためという名目で軍隊が侵出したり、分離壁が築かれる。この壁を作るために、また新たにパレスチナ人の土地が奪われる。ビリン村はすでに5割以上の土地を奪われた。毎週金曜日に地元の住民が非暴力で抗議のデモを行うが、それに対してイスラエル兵は力で対抗している。催涙弾やゴム弾を発砲し、村人たちを拘束し、けが人もたくさん出ている。4月には、地元住民のリーダー格だった青年が、催涙弾の直撃を受けて殺された。

彼が撃たれた場所に行くと、催涙ガスが辺りに染みついて、目がヒリヒリする。その場の写真を撮った途端、銃を構えたイスラエル兵が飛び出してきて、「写真を撮るな」「パスポートを出せ」とわめき始めた。案内してくれた住民が(こちらは丸腰)、「ここは我々の土地だ」「そっちこそIDを見せろ」と一歩も引かずに言い返す。
イラクでの米兵もそうだったが、ここのイスラエル兵も、撮られて報じられては困るようなことをしているから、カメラに敏感になるのだろう。私が持っていたのは、ホントに小さなデジカメだったのだが。
ヘブロンには3宗教の祖とも言うべき予言者アブラハムの墓がある(といわれている)。かつてはイスラム教の

ユダヤ人はそれだけでは満足せず、パレスチナ人の地域にも入植を続けている。ユダヤ人たちは建物の上階に住み着き国旗を掲げ、路上に向かってゴミを投げつけるなどパレスチナ人に対して嫌がらせを行う。瓶や缶が上から振ってくるので、上階にユダヤ人が住み着いた所では、ケガをしないようネットを張ってある。そういう嫌がらせに耐えかねて、出て行くパレスチナ人も少なくないらしく、商店が閉まって、日本風に言えば”シャッター通り”と化しているところも。いびり倒して追い出そうという、これは大がかりな(しかも国がバックについた)苛めだ。

パレスチナ人を劣った人間とみる意識はは、こうした”熱心な”ユダヤ教徒ばかりではなく、程度の差はあれ、多くのユダヤ人が共有していると思われる。西岸地区から戻る途中のチェックポイントでは、バスから降ろされ、イスラエル兵のチェックを受けなければならない。
金属探知機のゲートでは、マイク越しに若いイスラエル兵があれこれ命令をする。まだ18歳か19歳の若い兵士が、自分の父親や母親より年長のパレスチナ人に対して、威張りくさった態度で指示をする。
そこまで厳しいチェックがない所でも、身分証明書が集められ、照会作業が行われる間、待機させられる。その結果、バスに乗ることを許されなければ、エルサレムに入ることはできない。ヘブロン帰りのチェックポイントで、妊婦とその母親らしい年配の女性が”不許可”となったようだった。二人は書類を見せ頼み込んでいる様子だったが、若い兵士は耳を傾ける様子はなく、何事かを言い捨てて後ろを向いてしまった。「ここから失せろ」と言ったそうだ。村に帰るにしても、身重の身で歩いて帰れというのだろうか。見かねてか、バスの運転手さんがいったん降りて二人にチケットらしいものを渡していた。せめてこれで帰りなさい、ということなのだろう。
チェックを受けるのは、パレスチナ人だけでなく、私たち外国人も一緒だ。ビリン村から戻る時のチェックポイントでは、私のすぐ前に、50代後半くらいのイギリス人の男性がいた。彼が金属探知機のゲートをくぐるたびにブザーが鳴り、何度もやり直しをさせる。若い女性の兵士が、居丈高に何事か命じている。ヘブライ語なので何を言っているか分からない。男性も分からないらしく、困り切った顔で、何度もゲートをくぐっている。どうやら兵士は「ベルトを取れ」と命じているらしい。英語で言えば男性も分かるだろうに。
この国の人の多くが、英語を話せる。もしこの女性兵士がベルトという単語すら出てこないとすると、高校時代はいわゆる”落ちこぼれ”だっただろう。そういう人が、ひとたび軍隊に入り、権力を持つと、今度は著しくその権力を誇示し、それを楽しむようになるのではないか。まさに、女性兵士の態度は、自分より年配の人間が言う通りに動くのを楽しみ、しかも男性がまごまごしているのを見て面白がっているようだった。イラクで見たアメリカ兵も、粗暴で威嚇的な態度で不愉快な思いをしたのは黒人兵だった。差別を受けている者、貧しい者が、ひとたび支配者として銃と権限を与えられると、被支配者に対してことさらに強い態度に出るのかもしれない。
エルサレムのホロコースト記念館に掲げられた膨大な写真の中に、怯えるユダヤ人を前にしたナチス・ドイツの兵士の一人が笑っている顔がとても印象に残っている。過去のナチス・ドイツ兵が、今のイスラエル兵だ。ユダヤ人たちは今、過去にナチス・ドイツにやられたことと同じようなことを、今度は自分たちがパレスチナ人に対してやっている。
ホロコーストの経験があるために、過剰なまでに防衛的になるのは分からないでもないが、自分たちが受けた人権侵害を他者に行うというのはどういうことなのだろうか。虐待を受けて育った子どもが長じて自分が親となった時に、子どもを虐待してしまうというのに近いのかもしれない。
若者たちが出入りするバーで会った、宗教的な家庭に育ったという女子高校生は、あっけらかんと、でもきっぱりと「アラブは私たちの敵」と言い切った。疑いを差し挟む余地はまったくなし、と言った調子。ユダヤ人は神から選ばれた民であり、それを非難する、アラブの人たちは許されないという自信に満ちている。彼女は、宗教的理由で兵役にも就かなくていいそうだ。軍隊に入ると知らない男性と接っするのは宗教的によろしくないから、だそうだが、それなのに夜遅くまでバーで飲んで若い男の子とおしゃべりするのはOKというのは、私にはどうしても理解ができなかった。
理解できたのは、パレスチナ人を殺したり虐待したりすることを平気な価値観ができあがってしまった彼女のような若者たちが他にもたくさんいて、それを変えるのは容易ではない、ということだ。
パレスチナ人の子どもには恨みが蓄積し、ユダヤ人の若者の中には選民意識が植え込まれている。
国際的非難が集まったガザ攻撃の間も、イスラエル国内のユダヤ人の9割以上が攻撃を支持していた。このユダヤ人たちの判断基準を変えることは果たしてできるのだろうか。
一方のパレスチナも、人々が大変な被害に遭っているというのに、今なおハマスとファタハの対立は続いているようで、一致団結してコトに当たるという状況になっていない。それぞれに言い分はあるのだろうが、端から見ていると、とてももどかしい。何とかならないのだろうか。
そんなことを考えていると、いるだけで神経が日々すり減っていくような気がした。本当に、この国は滞在するだけでヘトヘトになる。
そんな中でも、イスラエルが行っている占領政策やパレスチナ人に対する人権侵害に対して、声を挙げたり、行動を起こしたりしているユダヤ人も、数は少ないがいる。
パレスチナ人にアドバイスをしたり裁判に訴えて人権の回復に努めている弁護士、様々な形でパレスチナ人への支援活動を行っているNGO、徴兵を拒否して服役までした10代、占領地域で行った行動を公表する元兵士たち……
今回の旅では、そういう人たちにも何人も会うことができた。彼らの考え方や基準は一様ではない。それぞれが自分で考え、自分自身の基準を持って行動し発言をしている。
それに対して、裏切り者よばわりをする者もいる。現に侵略や戦争を続行中の国で、それに反対するのには、相当の勇気がいると思う。勇気を持って、声を挙げる人が次々に出てくる。それは、彼らが考える材料となる情報を容易に入手することができ、様々な立場で活動をしている団体がすでにあるからでもある。言論・報道・結社の自由というのは、いかに大事なのかを改めて思う。
また、立場は反対だけど、声を挙げ始めた人たちの判断は尊重するという人たちも少なくないようだ。
日本が、過去の軍隊の行動について語ることが依然としてとても難しいことであるのを考えると、イスラエルでの言論の自由は、制度としてだけでなく、社会の中に、人々の血肉に根付いているような気がする。この点に、希望を託したい。


