私が終身刑の導入に反対するワケ
2009年09月17日
私も以前は、仮釈放のない終身刑の導入に賛成していた。
ただし、死刑を廃止するのではなく、死刑と無期懲役刑との間に、終身刑を置いたらいいのではないか、という考えだった。なぜなら、死刑と無期懲役刑の間があまり差がありすぎるように思えたからだ。
厳罰化が進んでいる昨今でも、終身刑が導入されれば、死刑ではなく終身刑を選ぶケースも少なくないだろうから、死刑を言い渡される被告人は少なくなるだろう。死刑は、より「究極の刑罰」として、まさにやむを得ない時にのみ課せられることになる。それでいいのではないか、と考えていた。
しかし、刑務所をいくつも見て回るうちに、終身刑を導入することの矛盾や困難さを知り、考えが変わった。
今でも、日本には事実上の終身刑を受けている受刑者がいる。
無期懲役刑判決が確定し、その後精神疾患などで医療刑務所に収容されている人たちだ。
ある医療刑務所には、戦後の混乱期に犯した事件のために、50年以上収容されている受刑者もいた。
すでに高齢で、相当に認知障害も進んでいる長期収容者たちは、オムツを当てている。刑務官たちも介護のトレーニングをしていて、夜中でも、オムツや布団が汚れれば手早く交換するなど対応をするので、所内は悪臭もせず、清潔そのものだった。毎朝、看護師が検温や血圧測定を行うなど健康管理も万全。食事は、個人の状態に合わせた療養食を看護師が食べさせる。昼間は日当たりのよいリハビリ・ルームで、日光浴をしたりビデオを見たり、簡単なリハビリをして、体調を維持するように務める。
健康管理とこまめな介護という点では、なまじの老人ホームより、ずっと手厚い。受刑者の人権を守るという点では、素晴らしいと思う半面、普通の市民がなかなか適切な施設に入れなかったり孤独死などもある中、重罪を犯した人が手厚いケアを受けている光景には、なんだか複雑な気持ちだった。
とはいっても、刑務所に違いはなく、彼らにここを出る自由はなく、塀の中で生涯を終えなければならない。希望のまったくないまま、ただひたすら死ぬ日を待って生きているかのような彼らの姿に、何とも言えない重苦しい気持ちにもなった。
死刑廃止を訴える人たちは、死刑が非人道的だと非難するが、仮釈放のない終身刑というのは、果たして”人道的”な刑罰なのだろうか……(今、死刑廃止を求めている人たちは、ひとたび死刑が廃止されて終身刑が導入されれば、すぐさま「終身刑は非人道的だ」として廃止を求めるだろう。すでに、福島瑞穂消費者相の夫の海渡雄一弁護士ら、先鋭的な死刑廃止論者の方々は、終身刑について批判している)。
それに、終身刑を導入すれば、私が医療刑務所で見たような高齢受刑者をたくさん抱えることになる。医療刑務所を拡充しなければ、追いつかないだろう。
今でも、受刑者一人あたり年間250万円くらいかっているはずだ。刑務所での医療費は国の負担だから、受刑者が高齢化し、最期の看取りまで行うとなれば、刑務所の経費はますます増える。
また、終身刑の受刑者といずれ釈放される受刑者を一緒に処遇するのは、とても難しそうだ。
刑務所内での秩序が保たれているのは、いつかは出られるという希望が受刑者にあるからこそ。規律に反すれば、懲罰があり、その結果仮釈放が遅れてしまう。しかし、釈放される可能性がなくなれば、規律に従ったり更正する動機付けがなくなる。
終身刑を導入するのであれば、新たに施設を作ったり、刑務官を大量に増やして対応しなければならなくなるだろう。
これまた、多額の税金がかかる。今の日本に、それをやりきる余裕があるだろうか。
現状を知れば知るほど、終身刑の導入には疑問を持ちつようになった。
少なくとも現時点では、終身刑を導入には賛成できないし、ましてやそれで死刑を廃止しようという意見には反対だ。
以上が、ジャーナリストとして取材をした末の私の意見だ。
以下、まったく個人的な思いを短く付け加えておきたい。
オウム真理教の松本智津夫に手厚いケアが補償された快適な老後を送らせるために、私は自分が払った税金を1円でも使って欲しくない。
坂本弁護士と家族が無惨に殺されて、今年で20年になる。当時1歳2ヶ月だった龍彦ちゃんも、生きていれば立派な青年になっていたはずだ。
この事件を初め、多くの犠牲者を出した一連のオウム犯罪の首謀者であり、たくさんの信者を犯罪の道に引きずり込んだ男は、今でも東京拘置所の中で、刑務官たちにきちんと世話をされて日々を長らえている。
死刑の執行停止、あるいは死刑廃止をして、彼に安心して長生きする権利と快適な老後を補償してやろうというなら、私は、日本の司法制度を信じられないし、税金も払いたくない。
ただし、死刑を廃止するのではなく、死刑と無期懲役刑との間に、終身刑を置いたらいいのではないか、という考えだった。なぜなら、死刑と無期懲役刑の間があまり差がありすぎるように思えたからだ。
厳罰化が進んでいる昨今でも、終身刑が導入されれば、死刑ではなく終身刑を選ぶケースも少なくないだろうから、死刑を言い渡される被告人は少なくなるだろう。死刑は、より「究極の刑罰」として、まさにやむを得ない時にのみ課せられることになる。それでいいのではないか、と考えていた。
しかし、刑務所をいくつも見て回るうちに、終身刑を導入することの矛盾や困難さを知り、考えが変わった。
今でも、日本には事実上の終身刑を受けている受刑者がいる。
無期懲役刑判決が確定し、その後精神疾患などで医療刑務所に収容されている人たちだ。
ある医療刑務所には、戦後の混乱期に犯した事件のために、50年以上収容されている受刑者もいた。
すでに高齢で、相当に認知障害も進んでいる長期収容者たちは、オムツを当てている。刑務官たちも介護のトレーニングをしていて、夜中でも、オムツや布団が汚れれば手早く交換するなど対応をするので、所内は悪臭もせず、清潔そのものだった。毎朝、看護師が検温や血圧測定を行うなど健康管理も万全。食事は、個人の状態に合わせた療養食を看護師が食べさせる。昼間は日当たりのよいリハビリ・ルームで、日光浴をしたりビデオを見たり、簡単なリハビリをして、体調を維持するように務める。
健康管理とこまめな介護という点では、なまじの老人ホームより、ずっと手厚い。受刑者の人権を守るという点では、素晴らしいと思う半面、普通の市民がなかなか適切な施設に入れなかったり孤独死などもある中、重罪を犯した人が手厚いケアを受けている光景には、なんだか複雑な気持ちだった。
とはいっても、刑務所に違いはなく、彼らにここを出る自由はなく、塀の中で生涯を終えなければならない。希望のまったくないまま、ただひたすら死ぬ日を待って生きているかのような彼らの姿に、何とも言えない重苦しい気持ちにもなった。
死刑廃止を訴える人たちは、死刑が非人道的だと非難するが、仮釈放のない終身刑というのは、果たして”人道的”な刑罰なのだろうか……(今、死刑廃止を求めている人たちは、ひとたび死刑が廃止されて終身刑が導入されれば、すぐさま「終身刑は非人道的だ」として廃止を求めるだろう。すでに、福島瑞穂消費者相の夫の海渡雄一弁護士ら、先鋭的な死刑廃止論者の方々は、終身刑について批判している)。
それに、終身刑を導入すれば、私が医療刑務所で見たような高齢受刑者をたくさん抱えることになる。医療刑務所を拡充しなければ、追いつかないだろう。
今でも、受刑者一人あたり年間250万円くらいかっているはずだ。刑務所での医療費は国の負担だから、受刑者が高齢化し、最期の看取りまで行うとなれば、刑務所の経費はますます増える。
また、終身刑の受刑者といずれ釈放される受刑者を一緒に処遇するのは、とても難しそうだ。
刑務所内での秩序が保たれているのは、いつかは出られるという希望が受刑者にあるからこそ。規律に反すれば、懲罰があり、その結果仮釈放が遅れてしまう。しかし、釈放される可能性がなくなれば、規律に従ったり更正する動機付けがなくなる。
終身刑を導入するのであれば、新たに施設を作ったり、刑務官を大量に増やして対応しなければならなくなるだろう。
これまた、多額の税金がかかる。今の日本に、それをやりきる余裕があるだろうか。
現状を知れば知るほど、終身刑の導入には疑問を持ちつようになった。
少なくとも現時点では、終身刑を導入には賛成できないし、ましてやそれで死刑を廃止しようという意見には反対だ。
以上が、ジャーナリストとして取材をした末の私の意見だ。
以下、まったく個人的な思いを短く付け加えておきたい。
オウム真理教の松本智津夫に手厚いケアが補償された快適な老後を送らせるために、私は自分が払った税金を1円でも使って欲しくない。
坂本弁護士と家族が無惨に殺されて、今年で20年になる。当時1歳2ヶ月だった龍彦ちゃんも、生きていれば立派な青年になっていたはずだ。
この事件を初め、多くの犠牲者を出した一連のオウム犯罪の首謀者であり、たくさんの信者を犯罪の道に引きずり込んだ男は、今でも東京拘置所の中で、刑務官たちにきちんと世話をされて日々を長らえている。
死刑の執行停止、あるいは死刑廃止をして、彼に安心して長生きする権利と快適な老後を補償してやろうというなら、私は、日本の司法制度を信じられないし、税金も払いたくない。