「子猫殺し」の不快

2006年08月24日

 チビが放置されていたのは、私が以前住んでいた横浜の古いアパートの駐輪場だった。
 私が住んでいたのは、その駐輪場からもっとも遠い4階の角。けれども子猫の鳴き声は、この私の部屋までビンビン響いてきた。しかも、悲痛な叫びにも聞こえるその声は、朝から、昼を過ぎ、午後になっても止まない。
 聞いているのが耐えられなくなり降りていくと、声の発信源は一台の自転車のカゴの中にあった小さなケーキ箱だった。
 開けてみると、仔猫は茶色くて、まるでネズミのように小さい。ようやく目が開いたくらいの幼さだった。この体のどこに、あんなにも大きな声を発し続ける力があるのだろうかと思った。本能的に捨てられたことを感じて、まさに全身全霊をかけて、「生きたい、助けて」と叫んでいたのだろう。
 私は、近くの獣医さんに仔猫を連れて行った。うちにはすでにタレがいたし、実をいうと私が住んでいたのはペットは禁止のアパートだった。大人しいタレだけならまだしも、こんな大声を発する仔猫は無理だと思った。それで、獣医さんにあずけて里親を探してもらおう、という甘い考えを抱いたのだ。
 けれども獣医さんは、あずかることはできない、と言った。
「拾った以上、あなたが育てるしかないでしょう」
 それが、あなたの責任だと言われているように思えた。獣医さんは、途方にくれている私が少し気の毒になったのか、ミルクを一缶くれて、作り方や与え方、排泄のさせ方などを教えてくれた。猫の赤ちゃんは、自発的におしっこや大便ができない。母猫がなめて刺激をして、排泄を促す。人が育てる時には、ティッシュペーパーをぬるま湯でぬらして拭いてやるとよい、とのことだった。
 ちゃんと育てられるか、大家さんにバレてアパートを追い出されないか、大きな不安を背負い込んで、私はアパートに戻った。
 急に小さな”弟”を連れて行ったら、タレがどういう反応を示すかも心配だった。けれどもこれは杞憂で、タレはむしろ興味津々。世話を焼きたがった。トイレの世話も、私が下手くそなのを見かねてか、タレがお尻をなめてやるようになった。タレ自身もまだ子どもで、しかも男の子なのに。
 授乳は、最初のうちは3時間毎。夜中でも鳴き声が聞こえると飛び起きる。最初は、放っておけば、例の調子で叫びだして、大家さんにバレてしまいそうだったからだったが、いつのまにか自分が母猫になったような気分になっていた。いずれは里親を探すのだからと、特別に名前もつけず、ただ小さいから「チビ」と呼んでいた。けれども、そうやって世話をしているうちに、感情移入してきて、とても手放せない気持ちになってきた。タレも、まるで仲のよかった頃の若貴兄弟の「お兄ちゃん」のように、チビをトイレに連れていったり、遊び相手になったりしていた。このふたりの間柄を切り裂くこともできない。
 というわけで、チビは私の家族になった。チビという呼び方に馴染んでしまい、改めて名前を考えることもなく、今に至っている。

 

 そんな経緯があるからか、日経新聞に掲載された直木賞作家坂東眞砂子氏の「子猫殺し」と題するエッセイを読んだ時には、ぞーっとするような拒絶感、何とも言いがたい不快感を覚えた。
 <猫を3匹飼って>いて、それが子どもを生むたびに、家の隣の崖下に放り投げて殺すのだという。<盛りがついた時にセックスして、子どもを産む><本質的な生を、人間の都合で奪い取っていいものだろうか>と考えると、避妊手術には踏み切れない、と坂東氏は書く。そのうえで、こう断じている。
<子猫が野良猫となると、人間の生活環境を害する。だから社会的責任として、育てられない子猫は、最初から産まないように手術する。私は、これに異を唱えるものではない。
 ただ、この問題に関しては、生まれてすぐの子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ>
 私はここに、強烈な違和感を抱いた。果たして、「同じこと」なのだろうか。私には、とてもそうは思えない。
 彼女は、こうも書いている。
<避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ>
<私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである>
 あたかも、避妊手術という安易な方法があるけれど、自分はそうした安易な道ではなくあえて辛さを引き受ける苦難の道を選んでいわんばかり。自分に酔っているのではないか、この人は。
 日本でも、チビを置き去りにした人がいるように、猫を捨てる人たちはいる。安全に避妊や去勢をする技術がなかったり普及していない時代には、子猫がもっともっと殺されていたのではないか。九州では、目が開かないうちの子猫はまだ魂が宿っていないので、その間に海に流せばよい、という言い伝えを聞いたことがある。おそらくは、子猫を殺す人間が、心の痛みを和らげるために作った話だろう。化け猫伝説なども、元々は猫に危害を加えた者が、自らの行為に抱いた恐れの感情が生み出した物語ではないか。
 ところが、この文章からは書き手の苦悩がさっぱり伝わってこない。ひょっとするとこの人なりに、辛い気持ちは味わっているのかもしれないが、読み手にそれが伝わらなければ、作家の文章としてどうなのか、ということになる。 
 
 避妊・去勢手術が、猫にとって最も幸せで「充実」した選択だと断言するつもりはない。けれども、苦しいお産をして、子どもを産んでも産んでも、お乳をやることも許されずに引き離されて殺される。そんなことを繰り返させられる母猫の「生」は、果たして「充実」していると言えるのだろうか。
 そして生まれ落ちるや、崖下に投げ落とされる子猫たちの命はどうなるのだろう。私が出会った時のチビがそうだったように、体が地面と激突する間での間に発したであろう命の叫びは、彼女の心には届かなかったのだろうか。
 雌猫が<セックスして、子どもを産む>行為を<本質的な生>としてこだわる坂東氏が、なぜ子どもを産んだ母猫が子どもを育てたり、生まれ落ちた命が自らの生存を求めるという、より<本質的な生>を置き去りにしてしまうのか、分からない。
 
 坂東氏は、タヒチ島に住んでいるそうだ。人家はまばらで、野良犬や野良猫の<死骸がごろごろしている>という。
<子猫の死骸が増えたとて、人間の生活環境に被害は及ぼさない。自然に還るだけだ>
 だから、殺しても平気なのか。
 <人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている>との主張を展開するなら、むしろ彼女自身が猫を「飼う」ことをやめればいい。ノラになれば、命を落とすリスクは高まるだろうが、自分の子どもを彼女に殺されることはなくなるだろうから。

 また彼女は、<愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに根ざした行為>と決めつける。彼女はこれを自虐的に書いているつもりなのだろうが、猫と暮らす者はすべて<愛玩動物として獣を飼>っているという前提が、そもそも人の心を読み間違っているとしか思えない。私は、こういう”作家”の作品を読みたいとは思わない。
 少なくとも私はとっては、タレとチビは大事な家族の一員、パートナー。困難な時代を一緒に過ごしてきた仲間でもある。「人が獣を飼う」という上下関係、一方的な依存と保護の関係でくくられるのは、大いに迷惑だ。
 ただし、私のわがままや仕事のために、ふたりに負担をかけているのは確かで、その点私は大いに罪の意識を感じている。
 とりわけタレは、雲仙普賢岳の噴火災害による土石流現場で出会った猫で、おそらく被災前は自由に地域を歩く外猫だったのだろう。タレは、私に命を救われたかもしれないが、同時に自由を奪われた。チビもまた、違う人の家にいけば、もっと快適な生活が送れたのかもしれない。そう考えると心が痛むし、気持ちも萎える。
 もっとも、猫たちはそんな私の以上にたくましい。この原稿を書いている間も、机の上のキーボードとディスプレイの間の空間で気持ちよさそうに寝ているタレは、この不自由で不自然な環境の中でも、心地いい場所をみつけ、より充実した「生」を送るための秘訣を、自分自身で開拓しているのではないか。本当に、猫から学ぶことは多い。
 チビは今入院中。お尻の分泌腺が詰まって周囲の組織まで化膿してしまったので、その治療のためだ。実はこの状態になった時、私はドイツにいて、知らせを聞いて動転した。すぐに戻ろうかとも思ったが、代わりに世話をしてくれていたA嬢がかかりつけの病院に連れていってくれ、完治に少々時間はかかるが、命に別状があるわけではないと聞いて、ホッとした。
 今回は大丈夫でも、このふたりとも、いつかはお別れの時がくる。一秒でも長生きして欲しいけれど、そんな私のわがままのために、彼らを苦しい目に合わせることだけはすまいと、今から自分に言い聞かせている。とはいっても、その時になったらどうなるか、自分には自信はない。せめて私にできるのは、それまでの間、ふたりが少しでも快適な日々を送り、安らかに老いていくことを助けることくらいだ。それが、私がどんな時期にも一緒にいて、大いなる慰めを与えてくれた二人に対する恩返しではないかな、と感じている。
 
 
(一部メディアで、私の発言が「子猫は……はずだ」「……べきだ」という論調で紹介されました。私の受け答えが拙かったのかもしれませんが、私は「べき」論を語ったのではなく、ここに書いたように、坂東氏の文章に対する強い違和感、不快感を述べたつもりでした。報道に携わったりエッセイなどをお書きになるが、万一、私の発言を引用する必要が生じた場合、この拙稿を前提に、おまとめいただきたくお願い申し上げます)

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