柿の木は残った

2007年06月09日

 6月3日、島原に行ってきました。
 死者43人を出した普賢岳大火砕流から丸16年。今年秋には火山都市国際会議が開かれるため、そのプレイベントとして行われた講演会のためです。
 地元の仏教会が全宗派合同の法要が営み、東京からも亡くなったカメラマンの同僚などが現地を訪れていました。
 大火砕流が発生した当時、報道陣は山の様子が一番よく見える位置にカメラを構え、そこを「定点」と呼んでいました。ここで文字通り、山を定点観察して、その変化を報じていたのです。やや高台になっているので、水無川の土石流からも安全だろうと思われていました。ところが、彼らの予想を超える規模の火砕流が発生。報道関係者がチャーターしていたタクシーの運転手4人を含む、20人もの報道関係者が一時に死亡しました。
 また、一部報道関係者のマナーの悪さを警戒して巡回のために待機していた地元の消防団員も12人が亡くなり、警察からも犠牲者が出ました。という経緯もあり、亡くなった消防団員の関係者の心情に配慮して、これまでの慰霊の催しは、地元の人たちのために行われていたようです。けれども、今回は17回忌ということで、島原市の仏教会が「様々な思いも、そろそろ水に流して、一緒に仏様をご供養しましょう」と呼びかけ、すべての犠牲者を対象とした法要になったそうです。
 
 現地には、火砕流の熱風で焼かれた消防車が、丁寧にさび止めが施され、地元の人たちでお金を出し合って作ったガラスケースに展示されていました。
 噴火災害が終息して11年。災害の記憶がない世代が、すでに中学生になっています。現物を目に見える場所に残しておき、長期にわたる災害の体験、そこから得た教訓を風化させず、若い人たちに伝えていこうという人々の強い思いを感じました。
 
 久しぶりに訪れた「定点」は、災害が進行中だった頃とは、大きく様変わりしていました。当時は、辺り一面が灰と噴石で覆われ、灰色の噴煙、濃い灰色の火山灰、さらに黒っぽい火砕流と、カラーフィルムで撮っても、モノクロ写真かと思うような、モノトーンの世界でした。
 それが今では、火砕流の通り道だった所にも、草や低木が生え、ずいぶんと緑が回復しています。
 地元の人が、「柿の木坂」と呼ぶ小道に案内されました。青々と豊かに葉を茂らせる柿の木が何本か生えています。いずれも、幹の半分、山に近い側がえぐれたようになっていて、そこからは枝は出ていません。火砕流の熱風で焼かれてしまったのです。しかし、半面は生き続けました。
 噴火終息後の樹木医の適切な処置もあって、木は回復を遂げ、秋には立派な実を結ぶようにまでになりました。
 植物の生命力に、感嘆させられます。
 静かに立っているだけで、柿の木は災害を体験した人たちにも、若い世代にも、勇気と希望を与えているようです。「柿の木坂」の名称には、そんな樹木への地元の人たちの感謝と尊敬の思いを感じます。
 
 島原では、取材の時にお世話になった方々が、温かく迎えてくださいました。
 ここは、私にとっては第2のふるさと、という感じがします。
 空港で、当時やはりとてもお世話になった自衛隊の方が迎えてくださったのにも、びっくりするやら、うれしいやら。
 一泊しか出来なかったのですが、久々に里帰りをしたような気持ちになりました。
 
 我が家のタレも、島原出身。
 1993年の6月から7月にかけての取材の過程で、土石流の跡で出会いました。私のウェストポーチに乗っかるような子猫だったタレも、今では堂々たるメタボ猫です。
 ダイエットフードでは物足りないのか、いささか認知症気味なのか、最近はご飯のすぐ後でも、「ご飯ちょうだい」「まだご飯もらってない」とおねだり。14年経っても、あの土石流の怖さが心に焼き付いているのか、大雨、雷におびえ、掃除機も大嫌いです。
 タレは、私が島原から預かった大切な命。少しでも長く、幸せに生きてもらいたいからこそのダイエットフードなのですが、このお給仕係の心、分かってくれないかな〜

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