のりぴー騒動と小室本

2009年09月19日

 ワイドショーもスポーツ紙も週刊誌も、”のりぴーネタ”で盛り上がっている。
 タレントが犯罪を犯した時に大きく報じられるのは、”有名税”としてある程度は甘受しなければならないのだろうし、今回のことが薬物依存の怖さを広く伝えるきっかけになればいい、とは思う。
 しかし、被害者がいる犯罪ではないし、覚せい剤の所持や使用で捕まる人は年間のべ1万人くらいいるのに、ちょっと騒ぎすぎではないだろうか。しかも、8月3日に彼女の夫が逮捕されて以来、騒ぎは1ヶ月以上の長きにわたっている。
 保釈されてすぐの記者会見で、彼女が質問を受け付けなかったことに不満を示す向きもあるが、こんな時に自分の気持ちを整理して話をするなんて、できる方が不思議なくらいだ。心に浮かぶ断片的な感情を口にすれば、誤解を受けるかもしれない、という不安が先に立つのは当然だろう。それに、今の時点では、彼女が自分で自分の気持ちをちゃんと分かっているかどうかも大いに疑問だ。
 
 そう思ったのは、小室哲哉さんという方の手記『罪と音楽』(幻冬舎)を読んだばかり、ということもある。
 「……という方」と書いたように、芸能オンチの私はこの人をよく知らない。
 いわゆるJポップというジャンルはまったく疎く、ちょっと前まで、彼の名前と顔と音楽がうまく繋がらなかったくらい。例の事件で、彼の顔と名前は瞬時に符号するようになったが、本に出てくる固有名詞(歌手、グループ、曲、番組)は、半分以上、具体的なイメージが思い浮かばない。
 そんな私でも、この本は実に面白く読めた。 
 小室さんは、この本の中で、事件で逮捕されてからの体験とその時の思いをふりかえりつつ、音楽についての考察を開陳している。
 
 彼の体験についての記述が興味深いのは、その時々の感情が、手に取るように書かれているから。
 たとえば、逮捕されてからの状況。
 手錠をかけられても、拘置所へ移送されている最中も、拘置所で独房に入ってからも、彼は現実だと受け止められず、<僕の体からは、五感がすっかり抜け落ちてしまっていた>という。まるで大がかりな映画現場にいるように感じて、移送中も<同行している検事さえエキストラに思えてきて、ますますリアルティが薄れていく>状態だったという。
 そんな彼が、初めて現実を痛感したのは、拘置所内のラジオを聞いた時。ニュースのトップ項目として、「小室哲哉プロデューサー逮捕」を報じるアナウンサーの声を聞いて、彼は体が震え、涙を流がとまらなくなった。
 メディアの中で活躍してきた彼にとって、生身の自分より、ラジオの中に出てくる自分の名前の方がずっとリアリティがあったのかもしれない。
 
 しかも、逮捕を実感したからといって、通常の感覚や感情がそれで呼び戻されたわけでもなかったようだ。普段は音には敏感な彼なのに、拘置所のすぐ側を高速道路が走っているのに、彼は中にいる間まったく気づかなかったという。相当な交通量のはずなのに。
 周囲の目から見れば、彼は冷静に対応しているように見えたらしい。たとえば、保釈を伝える産経新聞大阪版11月22日付には、次のように書かれている。

<特捜部によると、取り調べでの小室被告の様子は「憑き物が落ちたような感じだった」といい、取り乱すこともなく真摯な態度で全面自供したという>

 けれども実際には、五感も感情も充分働かないまま、取り調べに応じるなど最低限の義務をこなすだけで精一杯の状況だったようだ。 
 こういう当事者の心理は、経験した者でなければ分からない。しかも、ただ経験すればいいものでもなく、自分の心がちゃんと観察できていなければ、他人にうまく伝わらない。体験者でもあり、自分の心を見つめて発信することに長けている人だからこそ、こういう伝える力をもっているのだろう。
 
 事件については、そこに至る経緯を率直に述べ、被害者や彼を応援してくれた人たちへの謝罪と感謝の気持ちを素直につづっている。判決で有罪を認定された時の衝撃、執行猶予となり帰宅したら「腰が抜け」たことも。
 その後も、検察が控訴するのではないかと不安にさいなまれた小室さんは、控訴期限が来るまで、自分のために書かれた嘆願書を読み返した。それで多くの人たちの「温情」を改めて心に刻んだ、という。嘆願書が心の安定剤にもなったのだろうけれど、次のような文章に触れると、本当の彼はとても謙虚で誠実な人なんだろうな、と思う。
 
<多くの温情をいただけたのは、僕自身のパーソナリティーではなく、僕の作った音楽のおかげだ。音楽を裏切りかけた僕を、音楽は裏切らなかった。音楽が僕のために多くの人たちを連れてきてくれたのだ>
 
 そういう経緯を経て、音楽を通して恩返しをしていきたいと考える小室さんだが、社会の構造の変化もあって、なかなか大変そうだ。

<拡散と格差が大きくなればなるほどヒット曲を作るのが難しくなっていく。しかし、「刑務所に入ったくらいのつもりで取り組めばできる」と自分を奮い立たせている>

 1度に50曲を同時に発表しようとか、なかなか難しいプランも考えているらしい。
 そんなに焦らなくても…と声をかけてあげたいくらいだ。1度失敗をした人が、社会に復帰するということは、経験のない者が考える以上のプレッシャーがあるのだろう。しかも、「温情」に応えようと真面目に考えれば考えるほど、逃げ場がなくなる。
 それでも、自分が必要とされているという心からの実感を得たことで、過去にヒット曲を連発していた頃のような、悲鳴を上げたいくらいの強迫観念とは違った、もっと自発的で前向きな思いでいるらしい。それが救いだ。

 小室さんは、執行猶予判決が確定するまでは、まったく作曲活動ができなかった、という。それだけ不安が強かったのだろう。
 当時の心境を、小室さんは失恋に例えて、こう書いている。
 
<「失恋したとき、名曲ができる」
 誰が最初に言ったのか、誰の言葉だろうか。いろいろなシンガーソングライターが言っている気がする。失恋と今回の事件を同じとは言わないが、重なる部分もある。
 あの言葉は間違っている。本当のギリギリ、崖っぷちまで追い込まれたら、やはり曲作りは無理だ。
 曲ができるのは、失恋で泣いても叫んでも、まだ余裕がある証明だろう(中略)
 今回の事件を通じ、悲しみの中では悲しい曲は書けないと確信した。本当の孤独の中では、寂しい歌は作れない。音楽や歌は、新たな一歩を踏み出そうとしたとき生まれる。前向きな心に言葉やメロディが降ってくるのだ>
 
 前向きな気持ちになった時に初めて音楽を生み出せるように、自分自身をふりかえって言葉にする作業も、ある程度落ち着いて、将来を考えられるようになってから出来ることだと思う。
 小室さんが、今回のような本を書けたのも、判決が確定して、気持ちが前を向くようになったからだろう。
 酒井法子さんに何かを語ってもらうなら、そういう時期を待てばいいのではないか。
 
 
 この本の中で書かれている音楽に関する文章も、とても興味深かった。
 たとえば、音楽の「わかりやすさ」について。
 ヒット曲を増産していた頃の彼は、音楽の「わかりやすさ」を求めた。もっと分かりやすく、もっと速く伝わるようにと、「わかりやすさ」の追及は再現がない。その結果どうなったか。
 
<「できる限り、直感的、反射的に伝わるよう心がけること」
 これはポップスを作るときに不可欠なキーワードだ。しかし、限度を超えてしまうと、高度や高尚な展開のメロディは不要になっていく。それは成熟と逆行する流れだ。「わかりやすくする」「シンプルにする」が、本来の意味から乖離して、「音楽のレベルを落とす」「音楽を単純にする」と同義語になってしまう。
 21世紀に入った頃、実は僕自身も驚いていた。ここまで簡単にしなくてはいけないのか?と>
<Jポップが幼児性を強めてしまった原因の一端は、僕にある(中略)その意味では、「小室哲哉の罪」と言われても仕方がない。自分では止められないあの感じ。もっともっと、と知らず知らずのうちにTOO MUCHになっていく過食症的症状。(中略)当時は、いかに簡単な表現にするか、いかに伝わる速度を上げるかに囚われていた>

 「わかりやすさ」を追求してきたのはJポップばかりではない。
 ジャーナリズムの世界も同じだ。
テレビも雑誌も新聞も、ひたすら「わかりやすさ」を追い求めてきた。「わかる」ために要する手間と時間は少なければ少ないほどいい。極端な話、瞬間的に「わかってもらう」のがベストだ。
 そのために、ややこしい話は、どんどん枝葉を落としていく。徹底的に刈り込んでいくと、最後には太い幹だけが残る。実にシンプルでわかりやすい。
 文章は短く、写真や図版でヴィジュアル化が必須。物理的に話を短くするだけでなく、読者や視聴者に「長さ」を感じさせないことも必要。面白く笑いを取り、展開を速くして飽きさせない。理屈を展開するより、感情に訴えかける方が「わかりやすい」。
 政治の世界でも、最近は国会がテレビ化されて、国会などではしばしばテレビ業界ではフリップと呼ばれる説明用ボードが登場する。それだけならまだしも、「味方か敵か」という二者択一の中で戦争が始まって、それに協力させられたりする。二者択一のような二元論的発想は、確かにシンプルで「わかりやすい」。
 「わかりやすい」ことは決して悪いことではない。けれど、「わかりやすく」するために、失われたものもある。それが小さくない。少なくない。
 しかも、「わかりやすさ」のために犠牲にしたものがあることを、情報の受け手は知らない。気づかない。実は、たくさんの枝や葉が切り落とされていることも分からないまま、太い幹だけを見て、「これが木だ」とわかった気になる。
 「わかった気になる」のは「わからない」ことよりも、もっと困ったことではないだろうか。「わからない」という自覚があれば、人は謙虚になる。あるいは、知ろうと努める。
 けれども、「わかった気になった」人は、自信がある。「わかった気になった」後は、それ以上考えない。そうなると、人はしばしば傲慢になる。あるいは頭の働きが劣化して、想像力が鈍くなる(もっと率直に言えば、バカで鈍感になっていく)。
 これまで、ひたすら「わかりやすさ」を求めるのは、主にジャーナリズムの世界で進行している現象だと思ってきた。けれども、ポピュラー音楽の世界でも、そういう傾向がある、というのだ。文学の世界でも、携帯小説など、「わかりやすさ」が求められるジャンルがあるらしい。
 ありとあらゆる分野で、「わかりやすさ」を求め、その結果、人はますます「わかるための努力」をしなくなる。手間暇かけて考えたり、読み解く努力をする必要もなく、次から次へと情報や音楽などを消費していく。こんなふうに、あらゆるメディアが人を次第に劣化へと導いているのではないか。
 もちろん、ジャーナリズムの中でも、そうした傾向に抗っている人たちはいる。しかし、なかなか多くの人たちに、そういう人たちのレポートや論評は届きにくい。
 小室さんの本によれば、Jポップの世界では、「わかりやすさを求める風潮に反旗をひるがえして」いる中には、多くのファンを持つ人もいるらしい。小室さん自身、「質の高い」ものを求める工夫や模索をしているようだ。ここにも、何か救いのようなものを感じる。
 それにしても、ほどほどの「わかりやすさ」を保ちつつ、枝や葉もある木の姿を伝えるには、いったいどうしたらいいのだろうか。また、人がある程度の「わかりにくさ」に耐える力を取り戻すには、どうしたらいいのだろうか……。
 
 この本で書かれている、小室さんが辛い現実から逃避するように、贅沢三昧にのめり込んでいく課程は、薬物などの依存症にも似ているかもしれない(そういえば、「買い物依存症」という病気もあった)。
 ”のりぴー”を追っかけるのはほどほどにして、小室本を読んで、あれこれ考えるのもいいかもしれない。
 ありがたいことに、この本は「わかりやすい」。でも、いろんなことを考えさせてくれる。

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