タレのこと

2012年02月29日

 タレが逝った。
享年は19歳と11ヶ月ということになっているけど、本当のところは分からない。もう20歳になっていたのかもしれないし、19歳と9ヶ月くらいかもしれない。
いずれにしても、雲仙普賢岳の噴火災害の最中に、土石流の後で巡り会って以来、約19年間、私と一緒に暮らした。出会った時は、まだ子猫で、私がつけていたウェストポーチに乗っけるとちょうとぴったりだった。
最初は現地で里親を見つけるつもりだったが、一緒に濃霧の山越えドライブをした時から、タレのぬくもりと離れては暮らせないという気持ちになり、飛行機に乗って、故郷島原を後にした。
何しろ、猫と一緒に暮らすのは初めてなので、私はまったく勝手が分からない。砂を入れたトイレが必要なことと、猫用の缶詰を売っていることは分かったけれど、どうすれば猫が快適なのかは、本を読んだりしながら手探り状態。ある時、タレが後ろ足に小さな傷を作り、わずかな出血があった。私はマキロンをしゅぱしゅぱとかけ、包帯を巻いた。ところがタレは足をぶるぶる震わせて取ってもしまう。私は薬局に走り、指用の伸縮ネットを買ってはめてみた。今度は、足をぶるぶるさせても取れない。すると、タレはやたらと走り回りながら、足をぶるぶる…そんなことをしたら、なお傷の治りが悪くなるのでは、と思い、猫好きの友人に相談の電話を入れた。すると友人は大笑いして、「猫は自分でなめて治すから」と言った。
私は、それくらい猫については無知なお世話係だった。
そうこうするうちに、私が当時住んでいた横浜で出会ったチビも家族になった。チビは、まだようやく目が明いたくらいの、文字通りチビだった。赤ちゃん猫は、母猫がなめてやることでおしっこが出る。私は、獣医さんから教わった通りに、ティッシュをお湯でしめらせて拭いてやるのだけど、なかなか出ない時がある。するとタレがやってきて、チビをなめてやるのだ。タレは若くしてとっても世話が上手な保父さんだった。
1994年秋、オウム真理教によって私の部屋の中に有毒ガスがまかれる事件が起きた。ドアに取り付けられた郵便受けのところから、室内に向かって噴霧したようだが、その音で私が目が覚め、電灯をつけたことで、犯人連中は逃げた。私は急いで換気扇を回した。玄関や台所付近に立ちこめていた悪臭が消えた頃、奥の部屋に寝ていたタレが「何があったの〜」という寝ぼけ顔で現れた。このガスを吸ったせいで、私はしばらく声が出なくなったのだが、タレたちがのんびり寝てくれていたのでふたりには被害がなく、ほっとした。
タレとチビを車に乗せて、何度か島原に里帰りをさせた。横浜からだいたい1350キロの旅。95年1月にも、ゆっくりゆっくり休憩を取りながら到着し、行きつけのお店でビールを飲んでいた時、オウム真理教被害者の会の永岡会長が倒れた、という報が入った。私は翌朝の飛行機で東京に戻ることにし、タレたちの世話を人に頼んだ。後から分かるのだが、永岡さんはオウムにVXをかけられて意識不明になったのだった。不幸中の幸いで命は取り留めたが、警察はなかなか事件として見てくれない。そんなこともあり、オウムの取材を少ししている時に、阪神淡路大震災が起きた。私は原稿を仕上げると、すぐに島原に戻った。車を起きっぱなしでは動きが取れないし、当時は大阪からは被災地に入るのは車が渋滞していて大変だと聞いたので、西側から入ろうと考えたのだ。島原の人たちが、車につめるだけの救援物資を用意してくれた。タレとチビのケージも乗せて、被災地に向かった。
大変な被害に遭っている所に伺うのに猫連れは不謹慎に感じる方がおられるといけないので、日中はずっとケージの中。夕方になると、人がいない埠頭などに行って、リードをつけて散歩をした。あの時は、タレとチビには我慢を強いてしまった。
島原に行った際、短い時間だけれど、フェリーに乗ったこともあった。なので、最初の飛行機と合わせて、私はタレのことを「陸海空を制した猫タレ」と呼んでみたりもした。
住まいは、何回か引っ越した。新しい所に着いてケージを開けると、まずはタレがそろそろ出てきて、匍匐前進のように室内の点検を始める。鼻の周りが筋肉痛になるんじゃないかと思うくらい、ひくひくさせながら、隅々まで点検を続けた。それに比べると、チビの点検はかなり手抜きで、兄貴がやってくれるんだからさ、という感じだった。
一緒に住んだ場所は、どこも狭いわりに私の荷物が多く、猫たちにとって快適な場所ではなかっただろう。とりわけ動き回りたい若い時には。それでもタレは、居心地のいい隠れ場所を見つけるのが上手で、棚の上の段ボールが1つ空なのを発見したり、押し入れの奥に空間を見つけたりした。なので、帰ってみても、時々タレが見つからずに、大騒ぎして探したりした。
今の前の住まいでは、まずはテーブルに飛び乗り、冷蔵庫に移り、それから棚の上へと、高いところに上がるルートも、タレが開拓。そうやってタレが1人でくつろいでいた場所も、しばらくするとチビが押しかけ、狭いところにぎゅうぎゅう体を押し込んでいく。場所によっては、タレが押し出されることもあった。そんな時、タレは「仕方ないなあ」とでも言うかのように、次の場所を探すのだった。
時々、チビと一緒に段ボールからの脱出ゲームをやって遊んだ。チビは段ボールの蓋を閉めても、自分で何とか脱出するか、それが無理だと分かると、「出して〜」と叫ぶ。ところがタレは、中でじっとしていて、何が何でも脱出しようとしない。あきらめがいいというか…。タレが脱衣所に入り込んだのを気づかずに私がドアを閉めてしまった時も、全然声をあげないから、どこに隠れているのかと探してしまった。「たれ〜、たれ〜」と呼べども答えず。押し入れの中、棚の段ボールの中と探し回り、最後に脱衣所のドアを開けたら、そこにちょこんと座っていて、かわいく「にゃん」。「どうして、出してって言わないの?」と聞いても、これには答えず、トイレに駆け込んだりするのだった。
土石流のトラウマもあるのか、タレはことのほか大きな音が嫌いで、掃除機は最大の敵。掃除機を持ち出すと、あっという間に隠れてしまう。押し入れが開いていればその奥に、あるいは棚の上の段ボール箱の中に。一方のチビは、掃除機を全然怖がらない。体についてる抜け毛を掃除機で吸い取っても平気だった。そうしているうちに、ある時、うっかりチビの尻尾を吸い込んでしまった。「ふぎゃ」とチビ。もちろん、すぐに掃除機のスイッチを切ったのだが、それと同時くらいに隠れていたタレが飛び出してきて、掃除機のホースに強烈な猫パンチを食らわした。あんなに掃除機が怖いのに、チビを助けようとしたタレに、私は「勇敢なる猫タレ」と称えた。
チビに対しては、ずっといいお兄ちゃんだった。ふたりはよく一緒に寝ていたけれど、いつもタレが枕になっていた。若い時には、しばしば2人でレスリングごっこ。たいていチビが仕掛け、タレが応戦し、いつもチビが勝つのだった。そんな時も、タレは「仕方ないな〜」という顔で、ひとり別の場所に行って寝る。すると、そこにチビが押しかけてきて、タレを枕にするのだった。
タレは、いつも私の気持ちを和ませてくれる存在でもあった。本当に悲しいことがあった時には、私はひたすらタレをなでながら、自分の気持ちをタレに語った。そんな時、タレはいつまでも嫌がらず、じっと私の相手をしてくれた。「タレや、タレや」となでているうちに、悲しみや悔しさでぐちゃぐちゃになった心も落ち着き、明日もこの子のために生きていこうという気になった。
そんなタレに対して、私はいつも「タレちゃんは世界一の猫さんですね〜」と言っていた。実際、タレがいるから、一日くらい家を空けても不安はなかった。食べる物と水を用意しておけば大丈夫、と思えた。
何かと要求が多く、「イヤなモノはイヤ」のチビに比べて、タレはあるがままを受け入れる派だった。私の無知で、予防注射をしていなかったために、初めて病気をして、チビと一緒に病院に行った時のことが未だに忘れられない。吐いてぐったりしていたのに、チビは診察の台に乗せられると必死に逃げようとして、病猫とは思えぬ抵抗ぶりだったのに比べ、タレががんばったのはケージから出される時まで。台に乗せられたら、もうまな板の鯉状態だった。
ただ、タレはあまり病気をしない子で、その後は長いこと、病院にお世話になるのは健康診断の時くらい。なので、私が家を留守にしていても、時々病院のお世話になるチビが入院している時も、タレはいつも家にいて、部屋の空気を暖めたり和ませたりしていてくれた。
要求はあまりしない代わりに、頑として受け入れない、という頑固さが出る時もあった。ずっと気に入っていた缶詰を、突然食べなくなる。一口くらいの小さなお団子にして口元に持っていくと、「仕方ないな」と2〜3口食べるものの、その後は口を開かない。無理に食べさせようとしても、ダメ。お給仕係の私は困り果て、タレが自ら食べてくれるまで、2缶目、3缶目と開ける羽目になった。
食いしん坊チビが朝になると私を起こすのに対して、タレは全くそういうことがなく、寝坊しても怒らなかった。
基本的に来客は苦手。人が来ると、必ず顔を出して愛嬌を振りまき、たちまち主役になってしまうチビと違って、タレは奥に引っ込んで出てこない。とりわけ嫌いなのは、だみ声や胴間声、それに猫なで声だった。以前、時々遊びに来ていた大学生の男の子が、タレと仲良くなりたくて、猫のおもちゃをいろいろ持ってきてくれるのだけど、もうとびきりの猫なで声で接近しようとするものだから、そのたびにタレは「フーッ」と怒って、逃げ出してしまう。一度、その子から電話があった時に、くつろいでいた椅子から飛び降り、隣室に逃げてしまったこともあった。どうやら、受話器から漏れてきた声に反応したらしかった。
気に入らないことがあるとチビは、私にも何度も「フーッ」をしたが、タレからは一度もない。でも、何度か怒られたことはある。たいてい、夜遅くまで飲んで帰った時。玄関先まで来て、「だめじゃないか」と言わんばかりの声は結構強くて、私はいつも「ごめんなさい」と平身低頭。
日頃は要求が控えめのタレだったが、突如、私の足もとでゴロンとなって、「お腹をなでて」と要求したり、床に新聞を広げて読んでいると上に乗ってきたり、強い口調で「構え!」と命令してくることもあった。それは、私がしばらくちゃんと相手をしなかった時。日頃は控えめな分、タレの強い声には迫力があって、やはり私は「ごめんね〜」と謝りながら、額、喉や首をかきかきし、お腹と背中をなでなでするのだった。
 ここ何年か、押し入れ以外でタレの好きな場所は、冬は私の椅子の上。夏は机の上か本棚の前。机の上はキーボードとディスプレイの間が定位置で、平らになって寝ている分にはいいけれど、起き上がると画面が見えなくなってしまう。「タレ!見えない!」と寝かせても、また起き上がる。その繰り返しだった。椅子にタレが寝ていると、おしりがほんのり温かい。ところが、チビまでやってくると、私がおしりを乗せるスペースは5,6センチしかなくなってしまう。タレがいなくなっても、その癖は抜けず、椅子に深く腰掛けることができない。ちなみに、この椅子は、タレの寝場所であると同時に、ふたりの爪研ぎもかねていて、背はボロボロ。座面には主にタレの毛がこびりついている。
先ほども書いたように、タレはあまり病気をしない子だったけれど、しだいに腎臓の値が心配になってきて、ご飯はk/dを中心にするようにしていた。2年くらい前に病院に皮下点滴に通い、その後、やり方を教えていただいて、うちでやるようになった。さらに、心臓にも不安があるということで、お薬を飲むようになり、昨年、それが2種類に増えた。
タレは薬を飲むのは上手だった。チビに薬を飲ませようとすると大格闘になってしまうのに、タレはいつもすんなり飲んでくれた。注射は嫌い。でも、点滴をする時には、いつも同じ箱の中に入れると、格別抵抗もせず、仕方ないな…という感じ。でも、体を固くするので、上手に針が入らず、何度かやり直して痛い思いをさせてしまうこともあった。針が刺さるときには、小さく「にゃっ」とないた。3本のシリンジを交換する間も、静かにじっとしていてくれた。
昨年の秋から今年にかけて、チビの状態が悪化した。激しく鼻血を出し、起きている時も呼吸のたびにいびきのような音を出す。最初は抗生物質の注射で収まった。それが効かなくなり、点鼻薬を処方されたのだけれど、チビはものすごくいやがり、無理に点鼻するとそれが刺激になってまたも大出血。一時はステロイドが効いて、無事に年は越したのだけれど、それもつかの間だった。いつもの病院でできる検査はすべてやって、あとは麻酔をかけてのCT検査をするしかなかった。麻酔のリスクを恐れて、私がもたもたしている間に、チビが呼吸をするのも大変なくらいに悪化してしまった。ご飯も食べない。
あまりに苦しそうな様子に、私もようやっと意を決して、大学病院に連れて行った。鼻腺癌とわかり、放射線治療が始まった。
この時期の私の頭はチビの状態を少しでも楽にしてあげることで占められていた。食事も、チビが少しでも食べられるものはないかと、あれこれ試した。タレのことは二の次になっていた。本当は、この時期にタレの腎臓も心臓もどんどん弱っていて、気持ち悪い時も多かっただろうに…。
それまでは、カリカリをあまり食べないチビのために、腎臓用の療養食をふやかして缶詰を混ぜて食べさせていた。チビに缶詰やパウチを出すようになって、タレにはカリカリをそのままという手抜きになった。いくら好きなものだけ出しても、チビはほんの少ししか食べない。すると、私が見てないすきに、タレがそ〜っとチビのごはんに近づき、食べていた。私がそれを見つけた時、タレは「みつかった!」という顔をした。それを見て、本当に不憫で、かわいそうなことをした、と思った。タレにこんな顔をさせてしまったことを悔いた。
「そうだよね。タレだって食べたいよね、おいしい缶詰」
タレを思い切り抱きしめた。タレは迷惑そうに、「ふにゃ〜」と声をあげた。
それ以降、タレにも少し缶詰をあげることにした。そのことで腎臓悪化を早めたかもしれない。ただ、後悔することばかりの私も、この時期にタレにも好きなものを食べてもらったことだけは、よかったんじゃないかな、と思っている。いただいたおせんべいの中に、海苔で巻いたものがあったので、それを剥がして上げると、これも喜んでぱりぱり食べた。海苔はタレの大好物なのだ。
チビについては、もう長くないのではないか、と思った。だから、とにかく苦しくない日を一日でも作ってやりたい。そんな気持ちで、酸素室もレンタルした。酸素室からのチビのいびきを聞きながら、タレに「また私とタレの2人だけに戻っちゃうのかな…」と語りかけたこともあった。そんな私の言葉を、タレはどんな心持ちで聞いていたのだろうか…。
そのタレも、2月に入ると体調がよくないのは分かった。食欲が減り、水を大量に飲んで吐いたりすることもあった。それでも、私の時間と関心のほとんどは、チビに向けられていた。週1回の大学病院での放射線治療の間は、毎日動物病院に通って、体力を温存するための点滴や流動食の給餌などをしていただいていた。10日に健康診断の予約をしていたので、そのときに診ていただけばいい、という気持ちだった。
そして10日。検査をして下さった先生が、いつになく暗い顔で、「タレちゃんの腎臓、とてもよくないです」とおっしゃった。そのまま入院して点滴治療が始まった。治療は結構長くなりそうということもあり、12日の夜にはいったん家に連れて帰り、翌日朝にまた入院することにした。
12日に戻った時には、確かに具合は悪そうだったけれど、椅子の上に自分で飛び乗る力はあった。けれど、次第にうなだれ、呼吸が速くなってきた。この時には、チビは放射線治療の効果が出てきて、かなり呼吸は楽になっていた。なのでチビの代わりに、タレを酸素室に入れた。ただし、ドアのロックはせずに、トイレに行きたければ出られるようにしておいた。
そして翌朝。タレはその酸素室に入れたあったかまん丸ベッドの中で、おしっこをしたらしく、タオルも毛もぬれていた。トイレに行く力もなくなっていたのだ。いそいでタオルを交換し、濡れティッシュで体を拭いているうちに、息が苦しそうになって、ぐったりしてきた。急いで保温マットの上に移し、酸素をマスクにつないで口元に置いた。チビも一緒にタクシーで動物病院に向かった。
心臓が弱っているため、点滴で入った水分がうまく体を循環させられず、肺の中にたまっている肺水腫を起こしていた。利尿剤や強心剤の投与が始まった。でも、これは腎臓に負荷をかけることになる。一方、腎臓のための点滴をすれば心臓に負担となる。両方の状態をみながら、昼夜をかけてゆっくりゆっくり点滴をしながらの治療が続いた。一時は、看護師さんが缶詰を小さなお団子にして食べさせて下さったり、自分でほんの少しのご飯を食べたこともあった。しかし、何度か発作を起こし、状態は一進一退…というより、一進二退ぐらいだったのだろう。
それでも、なんとか25日の土曜日には家に帰れるようにという目標を立てて、先生方は治療にあたってくださっていた。私も、もう治らないものなら、せめてもう一度家に連れて帰り、そこで最期を迎えさせたい、という気持ちでいた。
22日の猫の日。いつものように夕方、面会に行った。この日は、少し長くいて、いつものように、「タレちゃんは、世界一の猫さんですよ〜」と何十回も言った。それから「土曜日にはおうちに帰ろうね」とも…。
タレは、額をかくと、首を伸ばして、「あごもかいて」のポーズをして応えてくれた。
そして23日。午前中、私はチビを大学病院に連れて行った。放射線治療の最後の日だったので、CTも合わせてとっていただいた。本当は、4回の治療を全部終えてしばらくしてからCTを撮るのが理想らしいけれど、その分麻酔を一回かけなければならない。チビの体の負担を考えて、これまでの3回の治療の結果をみて、今後の対応を考える、という病院側の配慮だった。
「今日は、いいお話ですよ」ーー検査後、担当の先生は、画像を見せながら説明をして下さった。最初は、大人の男の人の親指くらいあった癌が、小豆粒くらいになっていた。完治するということはないけれど、今後、この癌が急に大きくならなければ、その間は普通に快適な生活ができる。本当にうれしかった。
家に戻って、チビに食事をさせ、私自身も遅い昼ご飯を食べた。そして、今日は何時にタレに面会に行こうかな…と思っていた時に、電話がなった。動物病院からだった。
「タレちゃんが発作を起こしました。すぐにいらっしゃれますか?」
「行きます」
タクシーに飛び乗って駆けつけると、タレには人工呼吸器がつけられ、先生が心臓マッサージをして蘇生を試みて下さっているところだった。
駆け寄ってタレの耳元で言った。
「タレちゃんは世界一の猫さんですよ〜」「うちに来てくれてありがとう」「ずっと一緒だからね〜。おうちに帰ろう」
タレは動かない。先生に「ありがとうございます。もう、いいです」と伝えた。先生の手が止まった。呼吸器が外された。
2012年2月23日午後2時25分。タレ永眠。
まるで、チビの治療が終わって、いい結果が出るのを待っていたみたいに、タレは逝ってしまった。そればかりか、私がお昼ご飯を食べ終わるのも、待っていたのかもしれない。入院してから2週間もない闘病生活。チビについてはある程度覚悟はしていたけれど、まさかタレが先に逝ってしまうなんて、考えたこともなかった。いつもいつも、チビに譲ってばかりのタレだったから、もしかして、たった1つしかない命もチビに譲って上げたんじゃないか、とさえ思えてくる。
ダメダメなお給仕係だったけど、もし、生まれ変わることがあるなら、懲りずにまたうちに来て欲しい。
本当に、ほんとうに、タレちゃんは世界一の猫さんなんです。

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